2009年1月22日

国語、日本語

特に意図したわけではないが、年末から年明けにかけて、日本語の現状と将来を憂いた2冊を読んだ。

福田恒存『私の国語教室』
現代仮名遣いで育ったので、元に戻せと言われも困ると思いつつ読んだが、読後には私も当時を生きていたら、頑なに反対したかもしれないと思った。それだけ説得力があるということなのだが、もう過ぎたことだしいいじゃん、というのとは違う別の違和感も、自分のなかに少しある。



水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』
言語間の非対称性、世界語としての英語の位置、翻訳の意味など、この本が描く世界に私も興味をもってきた。なるほどと思う部分も多い。
繰り返しの多いくどい文体に閉口したのは、たぶん、一点において著者の思いに感情移入できなかったからだろう。
それは、「国民文学」に対する思い入れの深さだ。
読者としてそういうものが好きかどうかの問題だけじゃない。
私は基本的に文学は翻訳可能だと思っているし、そうじゃないとしても翻訳不可能な要素にはあまり興味がない。
その言語でなくては伝わらないニュアンス。それが言葉の魅力のひとつであることは確かだ。
でも、その微妙なもののなかにこそ重要なものがあるとは考えないのである。
これは、多分わりと少数派の感覚なんじゃないだろうかとは思う。
いろんな意味で正しいと思いつつ、どうも反発せずにいられないのは、福田恒存の本と同じであった。

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