2011年6月26日

鳥を探しに

何冊かの本を並行して読んでいると、その中身や登場人物がごっちゃになる。
酒を飲んでいるうちに、誰かの言ったことを、自分の言ったことや考えたことと勘違いしてしまう。
あの歌とこの歌も、いつのまにか混ざってしまう。
そんな現象は歳をとるとともに増えていくが、何も老化だけに特有の現象でもない。
時を遡っていけばいくほど、つまり脳のなかの過去というのは基本的にそういう特徴をもっている。
そういう混乱は苦手という頭脳明晰(?)な人にはあまりお勧めできないが、頭の中の霞んだような状態も積極的に好きだという人(?)には、強く勧めたい素敵な本だ。

平出隆『鳥を探しに』
コラージュという手法を使った600ページを超える大著。寝転がって読むとさすがに腕が痛いが、読みにくいという感じはない。(一部、北極圏の冒険譚をのぞき)劇的なストーリーが展開するわけでもないのに、不思議である。
読み進めていくとすぐ、「私の祖父」が翻訳したという探検家の文章から翻訳者の声が聞こえはじめ、国境としてのベルリンが対馬海峡やロンボク海峡と重なり、あの時代とこの時代、あの鳥のとこの鳥といった具合に話がまざり、ととにかくごっちゃになっていく。そういう仕掛けになっている。
この面白い本が終わってしまっても、私たちは心配する必要がない。いくつかの本を並行して読みながら、夢うつつに暮らしていけばいいのである。

あまり関係ないが、最近ときどき鳥の鳴き声を集めたCDを聞いている。
いつになっても鳴き声と名前が一致してこない。
もちろんこれは、いろんな記憶がまざってしまっているのではなく、最初から違いをろくに認識できていないのである。

2011年6月23日

トラップの重要性

上手と下手については、もう何度も書いた気がする。
上手はどうしても薄味、退屈になりがちだという下手の自己弁護みたいな話。
とはいえ、これは下手そのものが好きという話ではないので、結構面倒だ。
結局、他が同じなら上手なほうがいいよね、とかいい加減な結論になりがちだ。

四方田犬彦『「かわいい」論』
上手というかなんというか、そつがない感じだ。
テーマもいいし、最初はぐっと引き込まれる。でも、なんか慣れた技でいなされて、おしまい。
よくよく考えるとテキトーな感じもするのだが、そこを技術でカバーしているわけだ。
そうでなければ、こんなにたくさんの本は書けないだろう。

市之瀬敦『砂糖をまぶしたパス―ポルトガル語のフットボール』
こちらは、テーマにはすごく興味があり(ポルトガル語圏のサッカー事情)、装丁もかわいいのだが、文章が非常に読みにくて困った本。
文章が下手だからといって味があるというわけでもない、ということを示す例でもある。
それはそれとして、サッカー日本代表がなぜ強くなれないかという分析については、妙に私と意見が一致する。
それは、トラップの下手さである。
つまり、基本中の基本を無視して高度な技術を磨いてもだめという話であり、よくよく考えてみると、自分の耳も痛い……。



2011年6月17日

ありふれた名前

ポルトガル語の歌詞を聴いていて「やたらに人間、人間と言っているな」と思ったことのある人は、多いかもしれない。私も、かつてそう思ったことがあるが、たぶんこの曲を聴いていたのだろう。
「マリア・ニンゲン」を「だめな人間」という歌にしたい気持ちも強くあったのだが、それをやりだすとどんどん脱線していくと思われたので、我慢してマジメに訳すことにした。
自分が愛する特別な人と同じ名前の人が、世の中に大量に存在するという事実。ふとした瞬間に、それがちょっとした驚異のように思われる……。
私にとって、この歌詞はすごくくだらないが、すごくピンとくる。

マリア・ニンゲン(ありふれたマリア)
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/maria.mp3

もしかしたら誰かほかの
人と出会っていたかしら
でもあなたのかわりになる人は
いないだろう

マリアなら ありふれた名前だが
あなたはぼくが ただひとり愛したマリアだよ
マリアなら ほかにも知ってるけど
冷たい他のたくさんのマリアたちとは合わない
マリアは特別なマリアさ
マリアだけがかけがえのない

マリアなら ありふれた名前だが
あなたは誰も まだ見たことのないマリアだよ
マリアなら ありふれた名前だが
あなたはぼくが ただひとり愛したマリアだよ

言い争いその2

この歌もカップルの言い争いの話らしいが、こっちのほうが深刻そうだ。
私も経験のあることであるが、言い争いというのはときにそれ自体が目的化してしまうことがあり、非常に困った状態になる。
そんなわけで、元の歌詞を聴きながらなんとなく「ためにする議論」という言葉が頭に思い浮かんだ。
しかし念のために調べてみると、「ためにする議論」というのは、こういう目的化してしまった議論のことではなく、あらかじめ結論を決めているような議論のことを言うのだそうだ。日本的というかなんというか……、こういう意味を微妙に取り違えている言葉というのが結構あるもので、これもまた困った状態である。

Discussao 議論
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/discussao.mp3

意固地になって 聞く耳もたない
売り言葉に買い言葉だけの議論
あなたの心は幸せになるの?
勝ち負け以外に何かがあるはず
心の迷いをあなたは
いつもの理屈と意見で隠すの? 隠せない
大切なもののすべてを失う
孤独と愛の違いも分からない

言い争いその1

世の中には言い争いばかりしているカップルというのがいて、そういうのが意外に仲良しということになっていたりする。
私などから見ると、仲がいいとか悪いとかいうより、そういう人たちは元気がありあまっているのではないかと思う。
当然のことではあるが、ブラジルにもそういうカップルが結構いるようである。

喧嘩はよそう
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/brigas.mp3

笑顔が 涙にかわる 私あなたを慰める
仲直りしよう あやまるから
今は少し我慢しよう
そのあと 私が泣く
こんどはあなたが慰めてくれるよ
愛はもっと深まるのさ
仲良くしよう 喧嘩はよそう

2011年6月7日

夜明ケ

私の好きなマンガにしりあがり寿先生の『夜明ケ』というのがあって、だからというわけじゃないが、「夜明け」という言葉さえ入っていれば、勇気がわいてくるようなところがある。
そんなわけでこんど訳した曲も、非常にネガティブかつ暗いが、私には何やら希望が感じられる……。

E Preciso Perdoar 許してあげよう
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/perdoar.mp3

ああ、夜明けが告げる 悲しみの歌
私は今、心決める
夢は消える 恋は終わる

愛すること 与えること 許すこと
間違うこと 恐れること 迷うこと

でも、これで終わりさ
あなたは決して変わらないし
苦しむのはいつも私 恋は終わる

科学あれこれ

ジェニファー アッカーマン『かぜの科学―もっとも身近な病の生態』
ウイルスによる風邪は、冷えることが原因とはなりえないというのが、いまだにぴんとこない……。
ここで否定されている風邪の治療や予防のあれこれを読んでいると、いろいろな思い込みというのは、死んでも治らないというか、科学的に考えるなんて私には無理だとも思えてくる。

アンドリュー・キンブレル『すばらしい人間部品産業』
そして、科学の進歩というよりも、この社会で当たり前とされている哲学のほうが問題というのが、たぶんこの本の立場。
私もまあそうかもとは思うが、この本はちょっと読むのがしんどかった。
もう少し多面的に書かれていれば、説得力も増しただろう。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』
3冊のなかで一番はこれ。ただし、原書のタイトルはThe Art of Choosing、サイエンスじゃなくてアート(技)としての選択。まあ、日本で売るには妥当なよいタイトルだとは思う。
たとえば、スーパーで品揃えを豊富にすると売り上げが下がるという話は、私のようにサブウェイ的な「オプション」にうんざりしているタイプにはピンとくる。
ちょっと前に流行った(?)行動経済学の話に近いが、この著者にはそれとちょっと違うしゃんと背筋の伸びた誇りのようなものを感じる。
選択というものの不思議さ、尊さ、神秘をそのまま受け入れている感じがするのだ。
そういうとき、科学というのはそのまま芸術にもなりうるのかもしれない。
私たちは無限に枝分かれした選択の森を生きているように感じることがあるが、そんなとき、ふと紐解いてみることをおすすめする。

以下、ちょこっと引用。
選択は、最良の状態では、主導権を取り上げようとする人々や体制に抵抗する手段となる。だが選択の自由がだれにでも平等に開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑圧になる。選択は、性別や階級、人種差などから生じる不平等を無視する口実になる。