2009年1月22日

ジャズとペンギン

こちらはお互いにまったく関係のない2冊。

瀬川昌久+大谷能生『日本ジャズの誕生』
対談本なんて安易に読むもんじゃないと思いつつ、つい買ってしまった。この本が扱う、戦前から戦後すぐにかけてジャズっぽい音楽に惹かれるからだ。二村定一の「青空」「アラビアの唄」、私もライブでやったことがある「南京豆売り」、服部良一アレンジの「山寺の和尚さん」「流線型ジャズ」、そして戦後の笠置シヅ子のブギウギまで。
2人の対談者と同じく、私もときどき、歴史の「もしも」で日本のポピュラー音楽は少し違った形になる可能性があったのではないかと夢想することがある。
そして、踊る、歌うという要素から離てしまった以後のジャズにはどうも興味がもてない。
本としては、まあ資料集という感じだが、色川武大の素敵な文章が引用されていたのが嬉しかった。『唄えば天国ジャズソング』とかいう本らしい。こんど探してみよう。

ちょっと長いけど、引用。

「……二村定一がそこで唄っている「アラビアの唄」というのが、実にまたいいのである。(中略)詩も見事にナンセンスでくだらないが、曲もまた、エキゾチックの安物で、格調などはケもない。誤解されると困るが、くだらなくて、安手で、下品に甘くて、この三つの要素が見事に結晶していて、出来あがったものは下品であるどころか、ドヤ街で思いがけず柔らかいベッドに沈んだような、ウーンと唸ってちょっとはしゃぎたいような気分にさせてくれる。
私にいわせれば、唄とはこういうものであってほしい。変に意味があっては困る。人生に相当するような重い部分があってもいけない。改めて手にとれば実にくだらない。しかしそのくだらなさが昇華されて、現実のくだらなさとはまた別になっている必要がある。
それが何故、命から二番目に大切なものになるのか、そう思わない人にはなかなか説明しにくい」



佐藤克文『ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ』
なんとなく手にとったのは、大好きなペンギンのあまり可愛くない写真が巻頭にあったからだ。
データロガーというさまざまな記録装置を使って、ペンギンやらウミガメやらアザラシの、まあどうでもいいけど未知の生態を探求するという、非常に愉快な本だ。
ペンギンは潜るとき息を大きく吹い、アザラシは吐くらしい。その結果、彼らの泳ぎがどう違うか……。
本当にくだらなくて、命から二番目に大切なものになりうる感じ。
あれ、無理やり関係づけちゃった。

怠けさせてください

相次ぐ、派遣切りのニュース。
私が直面しているのは解雇のような突発的な事態ではなく、仕事がだんだん減っていくといった、じりじりしたものなので、自分がこうなるかもという感覚とはちょっと違う。それでも、恐怖はある。たぶん、かなり安定した職についている人であっても、恐怖を感じるのであろう。
だからだろうか、ヒステリックな拒否感みたいなものをときどき感じる。
経済が悪化して多くの人が職を失い、家まで失っているという事態に対し、「この人たちはまじめに働こうとしている」「いや、努力していなかったからこうなったのだ」といった、個人の仕事に対する真面目さや努力の問題として語られるのを聞くと、私は冷や冷やする。
なぜかというと、私が怠け者で、明らかに仕事に対する情熱に欠けているからだ。
私が路頭に迷うことになったら、たぶん誰も同情してくれないだろう。

ポール・ラファルグ『怠ける権利』
80年近く前に書かれた本で、「働く権利」ではなく、「働かない権利」「怠ける権利」「1日最長3時間労働」を主張している。皮肉や逆説たっぷりで、当時のさまざまな文脈を読み解かなければならないので、結構面倒だが、面白い。
労働意欲というやつは、高まれば高まるほど賃金の全体的な低下を招く、という性質ももっている。
もちろん、私ひとりが怠けた場合、私の賃金は低くなる。
ぜひ、みなさんにも怠けてほしい。



とはいえ、私にも他人のために役立つことをしたいとか、人に認められたいという欲求がないわけではない。
人間にとって怠けと労働をめぐる関係は、とても複雑なのである(と偉そうに)。
このことを非常にわかりやすく描いた名著も、ついでに紹介しておこう。
トム・ルッツ『働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち』
長い本だが、細部も非常に面白いです。

国語、日本語

特に意図したわけではないが、年末から年明けにかけて、日本語の現状と将来を憂いた2冊を読んだ。

福田恒存『私の国語教室』
現代仮名遣いで育ったので、元に戻せと言われも困ると思いつつ読んだが、読後には私も当時を生きていたら、頑なに反対したかもしれないと思った。それだけ説得力があるということなのだが、もう過ぎたことだしいいじゃん、というのとは違う別の違和感も、自分のなかに少しある。



水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』
言語間の非対称性、世界語としての英語の位置、翻訳の意味など、この本が描く世界に私も興味をもってきた。なるほどと思う部分も多い。
繰り返しの多いくどい文体に閉口したのは、たぶん、一点において著者の思いに感情移入できなかったからだろう。
それは、「国民文学」に対する思い入れの深さだ。
読者としてそういうものが好きかどうかの問題だけじゃない。
私は基本的に文学は翻訳可能だと思っているし、そうじゃないとしても翻訳不可能な要素にはあまり興味がない。
その言語でなくては伝わらないニュアンス。それが言葉の魅力のひとつであることは確かだ。
でも、その微妙なもののなかにこそ重要なものがあるとは考えないのである。
これは、多分わりと少数派の感覚なんじゃないだろうかとは思う。
いろんな意味で正しいと思いつつ、どうも反発せずにいられないのは、福田恒存の本と同じであった。

2009年1月3日

謹賀新年


みなさまにとって素敵な牛が見つかりますように。
そして、ニコニコな年となりますように。

*「十牛図」の解説はこちらなどでどうぞ。