2011年7月13日

詩というクラフトについて

前にも確か光文社古典新訳文庫のすばらしさについては書いた気がする。
今回も、その点については変わらない。こういうチャレンジングな仕事を続けてほしいと祈るばかり。

川村湊訳『梁塵秘抄』
ときに原詩を逸脱してでもという現代的な訳。そして原詩と解説を読み合わせれば、なんとなく詩が伝わってくるという素晴らしい仕組みである。
版元および訳者には最大限のリスペクトを表明しつつ、とても残念なのだけど、肝心の訳詞はあまり好きになれないものが多かった。
それが訳者の目指したという「歌謡曲っぽさ」ゆえなのか、全体に言葉がオヤジすぎるからなのか、私に詩を味わう才能が足りないからなのか、あるいはそもそも原詩が好きじゃないのか、理由はよくわからない。
ただ、解説などを読むと、やはり訳者の意図や狙いは正しいと思える。
そして、自分ならこう訳すなあ、などと考えながら読める本はそうあるものではない。

ちょうど同じときに買って読んだこの本はまさに、その「なぜ好きになれないか」を問題にしたような本。
JLボルヘス『詩という仕事について』
原題は英語(元は英語の講義らしい)で、This Craft Of Verse(詩というものづくりについて)。
逐語訳と再創作の両方が力をもつことを述べた詩の翻訳についての章など、「なぜ詩は詩になったり、ならなかったりするのか」という謎について書いたものといえる。
もちろん、明快な答えがあるわけではない。最後まで詩は謎に満ちたクラフトでありつづけるわけだ。

逐語訳という考えかたは聖書の翻訳から始まったと考えています。……聖書の実に見事な翻訳が行われるのを見て、人びとは、外国風の表現のなかにも美があることを発見し、そのように感じ始めました。

インド人は古代哲学の用語を今日の哲学の新しい表現に翻訳するのですが、これは素晴らしいことです。これは、人が哲学を信じるという、あるいは詩を信じるという、そして昔美しかったものは今も美しくあり続けることができるという、そうした考えを保証するものです。

そんな訳で、つぎはこれを読んでみる。
ホイットマン『おれにはアメリカの歌声が聴こえる 草の葉(抄)』


2011年7月1日

広場と庭

アントネッラ・アンニョリ『知の広場』(みすず書房)
最近、図書館にすごく世話になっている。昔からよく使っていたが、インターネットで使い勝手がよくなっというのが大きい。
そういう時代、確かに図書館の存在価値って何だろうとは思う。
好きな場所のひとつだし、なくなってほしくない。
広場のような場所であるべきという理想はよく分かる。メキシコシティの広場はでかすぎ、オアハカの広場は素晴らしいというのもわかる。
本自体はやや図書館関係者向けという感じで、それほど面白い読書ではなかったけど、関連業界(?)の方にはぜひ読んでいただきたい。

ヨーロッパ文化の広場に対応するものが日本にないとか、いやそれは銭湯だろうとかいう議論はともかく、近くに少し広場っぽいところがあって、近所の暇をもてあましつつお金のなさそうな老人たちが集まっている。
行政はというと、明らかにそれを迷惑がっているようである。
図書館を広場に、よりもまず「居心地のよい広場を」のほうが先なのかもしれない。
以下引用。

……ベッペ・セバステは書き、読者にこう呼びかける。「もしベンチが消滅の危機にあるとするなら、それはベンチが危険だと考えられているからだ。ベンチが危険なのは、町中に偶然に、しかも無料で置かれているからである。……」。もし広場からベンチが消えてしまうなら、私たちの図書館が屋根のある広場になればいい。……消費の神さまに敬意を示す必要のない無料の場所に数時間座って過ごせるなら、それだけでいいのである。

レヴィ・ストロース『ブラジルへの郷愁』(中央公論新社)
コンパクト版が出たのを知らず、半年ほど過ごしていた。
1930年代のブラジルを撮った写真。サンパウロは劇的に変わり、バイーアはほとんど同じ。
そういう本ではないのだが。
(タイトルの元になったダリウス・ミヨーの「Saudades do Brasil」コルコヴァードという曲がyou tubeにあったのでメモ)


湊千尋『レヴィ=ストロースの庭』
(NTT出版)
確かに、レヴィ・ストロースが撮った写真の大半を占める先住民がくつろいでいるようなだらだらしているような情景は、「庭で過ごす人々」という感じもする。ちょっと悲しい感じのする庭。
広場ではもちろんない。