2011年12月21日

ひとりは悲しい

まだ訳してなかったの? という感じの名曲、有名曲、そして情けない歌。

トリスチ 悲しい


http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/triste.mp3
ひとりは悲しい あなたは美しい(冷たい)
夢見てばかり 目を覚ましたい
いつの日か あなたと並んで歩きたい

でもあなたは今 遙かなる高み
心はただ 憧れ震える
ひとりは悲しい

最近買ったバスメロディオンを入れようと四苦八苦したが、音域が限られ、かつ私の演奏が下手であることにより、結局諦めたので、音源としてはやや退屈なものになってしまった。
楽譜に書くくらいの気合いを入れないと、こういう楽器はうまく使えないのかも。

2011年12月17日

放送禁止歌?

今の日本だと、ちょっとこれは放送できないかもしれないが、私はとても好きだ。

ノエル・ホーザ Gago Apaixonado

タイトルを訳すと「恋するどもり」という感じだが、「情熱的なる吃音」あるいは「恋がふるえて」とかでもいいのかもしれない。ジョアン・ボスコのカバーがわりと有名かな?

http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/gago.mp3
な、な、なぜかな き、君といると
緊張で こ、声ふるえる
かな、なしいこと 言葉に 傷つき
き、君の心 ど、どこにあるの?
と、とて、てもいいひ、人だと
だ、だ、騙されていたんだ
かかか 可愛い笑顔で君
どどどどどどど どうして う、嘘ばかり?

学校を卒業して会社に入ったころ、私はカラオケの洗礼を受けた。ひとまわりもふたまわりも上のおじさんたちに連れられて、よくカラオケボックスで歌いまくったのである。
ひじょうに個性的な人たちが多く、私にとっては「セロ弾きのゴーシュ」的な修行時代と言えるのかもしれない。
そのなかに、吃音で福山雅治や尾崎豊などを歌いまくるおっさんがいて、衝撃的だった。本当に素晴らしい、これこそ歌、というカラオケだった。
ちなみに、尊敬するその先輩とは、今も年に一回くらいは飲み会でご一緒させていただいているが、このあいだ年齢を聞いたらもう70歳を過ぎているらしい。いろいろ見習いたいところである。

2011年12月13日

月食の夜には

その昔私は天文少年だったので、中学生のころ『天文ガイド』に皆既月食の観測スケッチを送り、名前も載せてもらったことがある(笑)。
意外というか、世の中けっこう月食フィーバーだった。これは、やたらに流星群が話題になるのと同じで、わりと最近の現象なんじゃないかと思う。
天文現象とインターネットは相性がいいのかもしれない。
私もそれに便乗してというわけではないが、皆既月食の晩にEclipseという曲を歌わせてもらった。
月食の夜には 君を思い出す
月よもう一度 夢みせて

場所は渋谷のリエゾン・カフェ。音もよく、空も広く、いいところだった。rikoさんとの共演は2回目。

heliさんが豆事情を歌ってくれた。当日、お店のメニューも豆づくし。


heliさんのアルバム完成記念ということで、お祝いムード。


めでたい。


photo:mimiari

2011年11月26日

アシスト狙い(その2)

(12月にライブが2回あります。最近、ギターの調子がひじょうによく、いいライブになる予感がするのでぜひ遊びにいらしてください。
とはいえ、両方とも出演2組のうち、私はどちらかというと脇役でアシスト狙い。サッカー日本代表のフォワード陣にはぜひアシストのことを忘れてひたすらゴールへ向かってほしいが、私には普段からアシスト能力が欠けているので、ぜひ頑張りたい……。)

ふたつめは、すでに何度かの共演でおなじみになっているheliさんのファーストアルバム完成(11月発売)を記念したライブ。全曲日本語オリジナル曲というCDらしい。ボサノヴァには、たぶん私とはかなり違う道から入ってこられたんじゃないかと思う。こんな形で一緒にできるのは、とても光栄というほかない。私のほうは、Rikoさんという素敵な女性ヴォーカリストをお招きしてこれに対抗、じゃなくてアシスト予定。

お店は料理もおいしいらしい。当日は豆料理もあるらしいので、私は「豆事情」を歌うつもりです(大体いつも歌ってるけど)。

★師走ライブ(heli's 1st album記念)@渋谷リエゾン
2011/12/10(土) 18:30~
出演:heli+ゲスト:サワラ(piano)
   OTT+ゲスト:Riko(vo.)
Charge 1500円+1drink
場所: Liaison Cafe(渋谷区宇田川町10-1 パークビル4F)

アシスト狙い(その1)

(12月にライブが2回あります。最近、ギターの調子がひじょうによく、いいライブになる予感がするのでぜひ遊びにいらしてください。
とはいえ、両方とも出演2組のうち、私はどちらかというと脇役でアシスト狙い。サッカー日本代表のフォワード陣にはぜひアシストのことを忘れてひたすらゴールへ向かってほしいが、私には普段からアシスト能力が欠けているので、ぜひ頑張りたい……。)

ひとつめは、いつもパーカッションでお世話になってるビリンバカ前田さんの新ユニット「CLUBE DE BOSSA」の初ライブ。豪華ゲストも出演するらしい。この人は私のなかでは明らかに「裏ボッサ」の範疇に入る立派な方なのだけれど、今度のユニットが何を狙ったものなのか、今のところ情報は一切入ってきていない。今回はかなり正統派な感じなのかもしれないが、油断はできない。
私のほうは、Rikoさんという素敵な女性ヴォーカリストをお招きしてこれに対抗、じゃなくてアシスト予定。

ライブ後は飛び入りの時間もありますので、気軽に遊びにいらしてくださいませ!

★CLUBE DE BOSSA+ボサノヴァ日本語化計画 Ao Vivo@高円寺
2011/12/3(土) 19:00~
出演:CLUBE DE BOSSA(kazue+ビリンバカ前田)+ゲスト有
   ボサノヴァ日本語化計画 OTT +ゲスト:Riko(vo.)
Charge 1500円+オーダー
場所: 高円寺 AG22 (杉並区高円寺南4-26-15 富士ビル5F)

いそげ、リラックス!


実兄でミュージシャンのwakiが7年ぶりにフルアルバムをリリースしたので、ぜひ聞いてほしい。
タイトルは Hurry Up and Relax。発売はdatabloemというオランダのレーベル

レーベル側はもはやダウンロード販売のほうに力を入れているようだが、CDジャケに珍しく兄のメッセージが「言葉で」記されていた。

After the 311 huge earthquake, my country Japan became like a hell, (中略)Doing music is basically a personal thing, and when the society is in the crisis, it can be recognized as a very selfish thing to do. But I felt I have to do something and it is weird to say this, but I felt I must push my works out. Though music is not important as surviving itself, but I think we sometimes need music to survive.(後略)

「音楽よりも生き残ること自体のほうが大切にはちがいないが、私たちはときに生き残るために音楽を必要とする」とはいかにも兄らしい言葉だ。
そして、たぶん生き残ることが個人的であるとともに公共的であるのと同じ程度には、やはり音楽も個人的であると同時に公共的なのだと私は思う。

ひっこし

10月の末に、新宿区から小金井市へ引っ越してきた。
夏くらいから、東京西郊のあちこちで部屋さがしをしてきて、それがようやく一段落ついたわけだ。私はどちらかというと「引越魔」の部類で慣れているつもりであったが、年齢のせいか今回はもうしばらくここでゆっくり暮らしたいという気持ちになっている。
ゴミ非常事態宣言まっただなかの小金井市ではあるが、のんびりとしていて気に入っている。ベランダからは野川の流れが見え、そこに鴨が徒党を組んで泳いでいたりする。
コリアンタウンの喧噪とは大きな違いだ。そして、そもそも夜というのは暗いものだというのをひさびさに実感した。

2011年9月16日

電子書籍『みんなの庭』

音楽ではなく、本業であるライターとしてのお仕事です(え、そんなはなし知らないって?)。
脇坂敦史『みんなの庭~岡本太郎からカレル・チャペックまで。庭をめぐる18の物語』
「哲学の庭」としてある企業が出していたフリーマガジンに連載していたものを、まとめました。
時代も分野も異なる18人が庭とどんな風に付き合ったのかいうのがテーマですが、ゆるい庭論にもなってます。地味だけど、たぶん類書はあまりないんじゃないかなあ。

IPhone、IPod Touch、IPad版のほか、Android版もあります。電子書籍というものがこれからどうなっていくのか、さっぱり分かりませんが、ぜひこの機会に読んでみてくださいませ(有料です)。

以下、目次です。

まえがき
岡本太郎 「太陽の塔」の地下にはベラボーな庭が眠っている
ウォルト・ディズニー ディズニーランドの原点はバックヤードの鉄道遊びだった
白州次郎 「従順ならざる日本人」の知られざる隠遁生活
ジョン・レノン ガーデナーがいなくなったあとの庭を想像してごらん
宮沢賢治 理想郷、イーハトーブの挫折した花壇づくりプロジェクト
愛新覚羅溥儀 ラストエンペラーの庭師への「改造」は成功したのか?
イサム・ノグチ 地球を庭にする夢は、少年が置いた石からはじまった
内田百閒 いなくなった猫を思い出すから、庭を見ることもできない
武満徹 庭は見るだけのものではない、聴くものである
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 「星の王子さま」は愛するバラのもとへ帰れたのか?
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲) ヘルンさん、あなたの愛した庭はまだありますよ
クロード・モネ 印象派の庭は、園芸ブームと日本への憧れがつくった
大河内傳次郎 昭和の大スターが求めた、映画では決して残せないもの
ジャン・アンリ・ファーブル 昆虫がいれば、どんな荒れ地もエデンの園となる
永井荷風 独身者にとって恐ろしいのは家庭の女か、庭の花か
デレク・ジャーマン 荒野のパラダイスは原子力発電所を借景とする
松下幸之助 「経営の神様」がつくった庭で2つの哲学がぶつかった
カレル・チャペック 園芸家は如雨露をもったロボットの夢を見るか

参考文献


2011年9月12日

夏のらいぶ

しばらくライブから遠ざかっていたが、8月後半から9月にかけてはなぜか3回も続いた。
うち2つは、スーパーギタリストの加藤崇之さんの企画・座長で、柳家小春師匠と3人の日本語ボサノヴァ一座という試み。
加藤さんと小春師匠のデュオは、これをやってもらうために訳してきたんじゃないかなーと思うくらいに素敵な演奏を聴かせてくれた。
ボサノヴァとして優れているのはもちろん、借り物じゃない、日語の歌が日本の音楽に乗っていると感じられる。

写真は、谷中ボッサでいい感じのお二人。

(photo by yagi)

もう一回は、岡野勇人さんのお誘い。
鍵盤ハーモニカ4人+パンデイロでショーロを奏でるというすごいバンド「けんはもよん♪」とご一緒させていただいた。
これも素晴らしいライブを見せてもらった。
私は久しぶりにビリンバカ前田さんのパーカッションと数曲合わせてみた。

歌詞ができてまだ数日、ほやほやの「カリニョーゾ」を練習なしで合わせるという神業(?)。


こっちは、お馴染み「ブラジルの水彩画」

2011年8月21日

ストーカーのやさしさ?

「カリニョーゾ」を訳すと「やさしく、愛情を込めて、愛撫するように」くらいの感じだろうか。ブラジルを代表する有名な曲だが、こんなに怖い歌詞とは正直思ってなかった。
とはいうものの、これには多分、時代や文化の違いなんかの事情もあるのだろう。
一方的に思いを募らせ、妄想を膨らませ、追いかけ、逃げるなと迫る。
今では「ストーカー的」ともいえる歌詞も、かつてはごくごく普通だったのかもしれない。
本来はその辺を勘案して穏やかに訳すべきなのだろうが、今回は面白いので敢えてそのままにした。

カリニョーゾ
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/carinhoso.mp3

なぜかな? 心が 幸せを 歌うよ
あなたには聞こえない? 感じないの? どうして
あなたは 逃げるの?

なじかは 知らねど 心が 微笑む
あなたには見えないの? 感じないの? どうして
あなたは 逃げるの?

愛する心 やさしい心 本当の心
あなたに伝えられたら決して逃げたりはしないはず
おいで 胸のなかへ くちづけ あふれるほど
そしてふたりの心は はじめておだやかな 愛に包まれる


ボサノヴァではなく、ショーロの曲として知られている。
楽器に苦手意識のある私にとって、器楽音楽であるショーロというジャンルは遠い憧れの存在だが、この曲は歌詞もついてて、ボサノヴァ系の歌手が歌うことも多い。
こんど、ライブをご一緒させていただく「けんはもよん♪」は、鍵盤ハーモニカ4人+パンデイロでショーロを演奏するというすごいグループらしく、私はびびっている。
そんなこともあり、この曲を訳してみた、という話でもある。

★live @ 奇聞屋
2011/9/1(木) 19:30~
出演:けんはもよん♪(中浩美,岡野勇仁,赤羽美希,林加奈,飯島ゆかり), OTT
Charge 700円+オーダー+チップ
場所:
奇聞屋(杉並区西荻南3-8-8-B1)予約03-3332-7724

2011年8月19日

夏らしい読書

マーク・トゥエイン『ハックルベリ・フィンの冒険』(ちくま文庫、加島祥造訳)
はずかしながら、四十になる前にようやく読めた……。
面白いとは聞いていたが、本当にいい。
罪悪感を抱きながら逃亡奴隷を助けてしまい、一緒に筏に乗ってミシシッピ川をどんどん下っていってしまう感じは、妄想王ドン・キホーテとサンチョの旅路に匹敵する、美しい情景だと思う。

それで、これを訳した加島祥造先生のことは、これまでも何度も書いてきたが(たとえばこれとか)、最近はこんな本も出ていることを知った。
加島祥造『わたしが人生について語るなら』
夏休み、こんな風に語ってくれるお爺ちゃんがいたら、孫は本当に幸せだろう。
こんな風に語ってくれなくとも、お爺ちゃんと過ごす孫は幸せである(なんのこっちゃ)。

3冊目は何が夏らしいかまったく不明だが、私にとってはなんとなくそのカテゴリーに入る。
ニック・レーン『ミトコンドリアが進化を決めた』
理科系で難しいからかな? 理由もはっきりせず、なんとなく読み始めたからかな?
あまり関係ないが昔、アメリカの高校で生物学の授業をとっていたことを思い出した。
ミトコンドリアはマイトコンドリアと発音してたな。



2011年8月11日

震災関連本?

本屋へいくと、震災関連本や原発関連本がたくさん並んでいる。
たぶん、一番早かった「関連本」を友人が編集した。それを聞いて私は誇らしく思ったが、自分自身はヘナチョコなので、この手の本をまったく手に取れずにいる。

でも、これだけはと思ったので買ったのが、
しりあがり寿『あの日からのマンガ』
震災本じゃなくて震災マンガじゃん、というわけで、期待した以上に素晴らしかった。
読むべし、笑うべし、泣くべし。

関係ないけど、震災後繰り返し流れた映像のなかで、津波とは別に印象に残ったのは「アメリカの女性ジャーナリストが、被災者のおっさんから煎餅を与えられる」という場面だった。彼女は大袈裟に「助けを必要としているのはあなたでしょう!?」と驚く。
妻が言うには、「あの煎餅は〈雪の宿〉に違いない」とのことで、しばらく私たちは〈雪の宿〉を食べたくなることが多かった。たまに店に置いてないと、みんな同じ気持ちで買い占めしているのだろうと想像した。

レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』を読むと、あのジャーナリストがパニクってて、煎餅を与えたおっさんが落ち着いていたのが、実はすごく典型的な出来事であったことが分かる。
日本だけではない、世界のどこでも大災害においては人々は意外に落ち着いていて、利他的な相互扶助が広く見られる。パニックを起こすのは主にエリート層、離れたところにいる人、そして土地勘のない人だとか。
これも本屋で平積みされていたのだが、実は震災前の本。ハリケーン・カトリーナ後の話はかなり衝撃的。
すごくいい本だと思うが、長くてややまとまりに欠けるのが残念。そして、あまり言いたくはないが、翻訳がいまいち。
オアハカをオアクサカ、ソカロをゾカロなんていうのは、インターネット時代の今、編集者と翻訳者の手抜きだし、いかにも英語中心主義な感じ。

安部ねり『安部公房伝』
あとがきの最後に一文が加えられていた。今後、すべての本は「震災後の本」になるのだと思った。
ひさしぶりに安部公房を読んでみようと思った。



2011年8月6日

ありうる? ありえない?

想定外のことは起きるものだというのは、まあ当たり前の話で、私のようないい加減な人間が言ってもただの言い訳にしか聞こえないけど、カルトーラのような滋味溢れるちょっとこわもての人が歌ったりすると、異様な説得力をもってしまうというお話。

アコンテシ(ありうる)
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/cartola.mp3

いつもこの世は不思議さ
どんなことだって、ありうる
私の愛はもう終わった
君はきっと悲しむのだろう 泣くのだろう
心から愛していたけど 今の私にはできないよ
ただ嘘をついて暮らすなんて
愛しているふりなんてできないよ
ありえないのさ


ボサノヴァというより、サンバです。
しかし、「どんなことでもありうる」とか言っておいて、最後に「それだけはありえない」で終わる歌ってすごいよなあと思う。
*暑いので演奏や録音がいい加減なのはどうかお許しを。

2011年8月3日

鳥の鳴き声

最近、家にいても鳥の鳴き声がとても気になる。
大体はスズメやカラスだと思うが、違うのが数種混じっているようにも思える。
しかし、本を読んだりCDを聞いたりしてもよく分からない。

さて、ひさびさにライブなので葉書をつくった。やっぱり鳥です。
最近、ギターの調子がすごくいい。よいライブになると思うので(たぶん)、ぜひ聴きにきてくださいませ!


★日本語でボッサの会1
2011/8/18(木) start 19時頃~
出演: 加藤崇之柳家小春、OTT
Charge たぶん無料1000円か2000円+オーダー
場所: Aparecida (杉並区西荻南3-17-5 2F)
◆超絶ガットギタリストと江戸音曲の歌い手というほとんどありえない組み合わせで、日本語ボッサというたいへん光栄な企画。お店もブラジル音楽好きなら一度は訪れたい素敵なところです。

鉄道音楽?(ご推薦、お待ちしております)

リズムに乗るという経験は、他の何にもかえがたいものだ。
私の場合、もっとも古い「ノった」記憶は、もしかしたら電車の音かもしれない。
そんなわけで、「鉄道音楽」みたいなものが好きだ。
といっても、以下の4枚しか思いつかない(しかも最後の4枚目は最近買ったばかり)。

スティーヴ・ライヒ『ディファレント・トレインズ』
クラフトワーク『ヨーロッパ特急』
エグベルト・ジスモンチ『Trem Caipira』
ソハイル・ラナ『Khyber Mail』

ぜひ、あとひとつ見つけて「五大鉄道音楽CD」としたい。条件としては、
・旅をしているような気分になること。
・歌詞はないか、あっても単純なものであること。
・それなりの長さがあること(アルバムが望ましい)。
ご推薦、お待ちしております。

さて、今回買ったソハイル・ラナ『Khyber Mail』について。
どうも、パキスタン映画音楽の巨匠らしい。そして旅路はカラチからペシャワールを目指すらしい(タイトルの意味はカイバル峠郵便列車?)。
なんか今となってはきな臭いエリアだけど、ハッピーでチープな感じが素晴らしい。
ああ、旅行にいきたい。

2011年7月13日

詩というクラフトについて

前にも確か光文社古典新訳文庫のすばらしさについては書いた気がする。
今回も、その点については変わらない。こういうチャレンジングな仕事を続けてほしいと祈るばかり。

川村湊訳『梁塵秘抄』
ときに原詩を逸脱してでもという現代的な訳。そして原詩と解説を読み合わせれば、なんとなく詩が伝わってくるという素晴らしい仕組みである。
版元および訳者には最大限のリスペクトを表明しつつ、とても残念なのだけど、肝心の訳詞はあまり好きになれないものが多かった。
それが訳者の目指したという「歌謡曲っぽさ」ゆえなのか、全体に言葉がオヤジすぎるからなのか、私に詩を味わう才能が足りないからなのか、あるいはそもそも原詩が好きじゃないのか、理由はよくわからない。
ただ、解説などを読むと、やはり訳者の意図や狙いは正しいと思える。
そして、自分ならこう訳すなあ、などと考えながら読める本はそうあるものではない。

ちょうど同じときに買って読んだこの本はまさに、その「なぜ好きになれないか」を問題にしたような本。
JLボルヘス『詩という仕事について』
原題は英語(元は英語の講義らしい)で、This Craft Of Verse(詩というものづくりについて)。
逐語訳と再創作の両方が力をもつことを述べた詩の翻訳についての章など、「なぜ詩は詩になったり、ならなかったりするのか」という謎について書いたものといえる。
もちろん、明快な答えがあるわけではない。最後まで詩は謎に満ちたクラフトでありつづけるわけだ。

逐語訳という考えかたは聖書の翻訳から始まったと考えています。……聖書の実に見事な翻訳が行われるのを見て、人びとは、外国風の表現のなかにも美があることを発見し、そのように感じ始めました。

インド人は古代哲学の用語を今日の哲学の新しい表現に翻訳するのですが、これは素晴らしいことです。これは、人が哲学を信じるという、あるいは詩を信じるという、そして昔美しかったものは今も美しくあり続けることができるという、そうした考えを保証するものです。

そんな訳で、つぎはこれを読んでみる。
ホイットマン『おれにはアメリカの歌声が聴こえる 草の葉(抄)』


2011年7月1日

広場と庭

アントネッラ・アンニョリ『知の広場』(みすず書房)
最近、図書館にすごく世話になっている。昔からよく使っていたが、インターネットで使い勝手がよくなっというのが大きい。
そういう時代、確かに図書館の存在価値って何だろうとは思う。
好きな場所のひとつだし、なくなってほしくない。
広場のような場所であるべきという理想はよく分かる。メキシコシティの広場はでかすぎ、オアハカの広場は素晴らしいというのもわかる。
本自体はやや図書館関係者向けという感じで、それほど面白い読書ではなかったけど、関連業界(?)の方にはぜひ読んでいただきたい。

ヨーロッパ文化の広場に対応するものが日本にないとか、いやそれは銭湯だろうとかいう議論はともかく、近くに少し広場っぽいところがあって、近所の暇をもてあましつつお金のなさそうな老人たちが集まっている。
行政はというと、明らかにそれを迷惑がっているようである。
図書館を広場に、よりもまず「居心地のよい広場を」のほうが先なのかもしれない。
以下引用。

……ベッペ・セバステは書き、読者にこう呼びかける。「もしベンチが消滅の危機にあるとするなら、それはベンチが危険だと考えられているからだ。ベンチが危険なのは、町中に偶然に、しかも無料で置かれているからである。……」。もし広場からベンチが消えてしまうなら、私たちの図書館が屋根のある広場になればいい。……消費の神さまに敬意を示す必要のない無料の場所に数時間座って過ごせるなら、それだけでいいのである。

レヴィ・ストロース『ブラジルへの郷愁』(中央公論新社)
コンパクト版が出たのを知らず、半年ほど過ごしていた。
1930年代のブラジルを撮った写真。サンパウロは劇的に変わり、バイーアはほとんど同じ。
そういう本ではないのだが。
(タイトルの元になったダリウス・ミヨーの「Saudades do Brasil」コルコヴァードという曲がyou tubeにあったのでメモ)


湊千尋『レヴィ=ストロースの庭』
(NTT出版)
確かに、レヴィ・ストロースが撮った写真の大半を占める先住民がくつろいでいるようなだらだらしているような情景は、「庭で過ごす人々」という感じもする。ちょっと悲しい感じのする庭。
広場ではもちろんない。


2011年6月26日

鳥を探しに

何冊かの本を並行して読んでいると、その中身や登場人物がごっちゃになる。
酒を飲んでいるうちに、誰かの言ったことを、自分の言ったことや考えたことと勘違いしてしまう。
あの歌とこの歌も、いつのまにか混ざってしまう。
そんな現象は歳をとるとともに増えていくが、何も老化だけに特有の現象でもない。
時を遡っていけばいくほど、つまり脳のなかの過去というのは基本的にそういう特徴をもっている。
そういう混乱は苦手という頭脳明晰(?)な人にはあまりお勧めできないが、頭の中の霞んだような状態も積極的に好きだという人(?)には、強く勧めたい素敵な本だ。

平出隆『鳥を探しに』
コラージュという手法を使った600ページを超える大著。寝転がって読むとさすがに腕が痛いが、読みにくいという感じはない。(一部、北極圏の冒険譚をのぞき)劇的なストーリーが展開するわけでもないのに、不思議である。
読み進めていくとすぐ、「私の祖父」が翻訳したという探検家の文章から翻訳者の声が聞こえはじめ、国境としてのベルリンが対馬海峡やロンボク海峡と重なり、あの時代とこの時代、あの鳥のとこの鳥といった具合に話がまざり、ととにかくごっちゃになっていく。そういう仕掛けになっている。
この面白い本が終わってしまっても、私たちは心配する必要がない。いくつかの本を並行して読みながら、夢うつつに暮らしていけばいいのである。

あまり関係ないが、最近ときどき鳥の鳴き声を集めたCDを聞いている。
いつになっても鳴き声と名前が一致してこない。
もちろんこれは、いろんな記憶がまざってしまっているのではなく、最初から違いをろくに認識できていないのである。

2011年6月23日

トラップの重要性

上手と下手については、もう何度も書いた気がする。
上手はどうしても薄味、退屈になりがちだという下手の自己弁護みたいな話。
とはいえ、これは下手そのものが好きという話ではないので、結構面倒だ。
結局、他が同じなら上手なほうがいいよね、とかいい加減な結論になりがちだ。

四方田犬彦『「かわいい」論』
上手というかなんというか、そつがない感じだ。
テーマもいいし、最初はぐっと引き込まれる。でも、なんか慣れた技でいなされて、おしまい。
よくよく考えるとテキトーな感じもするのだが、そこを技術でカバーしているわけだ。
そうでなければ、こんなにたくさんの本は書けないだろう。

市之瀬敦『砂糖をまぶしたパス―ポルトガル語のフットボール』
こちらは、テーマにはすごく興味があり(ポルトガル語圏のサッカー事情)、装丁もかわいいのだが、文章が非常に読みにくて困った本。
文章が下手だからといって味があるというわけでもない、ということを示す例でもある。
それはそれとして、サッカー日本代表がなぜ強くなれないかという分析については、妙に私と意見が一致する。
それは、トラップの下手さである。
つまり、基本中の基本を無視して高度な技術を磨いてもだめという話であり、よくよく考えてみると、自分の耳も痛い……。



2011年6月17日

ありふれた名前

ポルトガル語の歌詞を聴いていて「やたらに人間、人間と言っているな」と思ったことのある人は、多いかもしれない。私も、かつてそう思ったことがあるが、たぶんこの曲を聴いていたのだろう。
「マリア・ニンゲン」を「だめな人間」という歌にしたい気持ちも強くあったのだが、それをやりだすとどんどん脱線していくと思われたので、我慢してマジメに訳すことにした。
自分が愛する特別な人と同じ名前の人が、世の中に大量に存在するという事実。ふとした瞬間に、それがちょっとした驚異のように思われる……。
私にとって、この歌詞はすごくくだらないが、すごくピンとくる。

マリア・ニンゲン(ありふれたマリア)
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/maria.mp3

もしかしたら誰かほかの
人と出会っていたかしら
でもあなたのかわりになる人は
いないだろう

マリアなら ありふれた名前だが
あなたはぼくが ただひとり愛したマリアだよ
マリアなら ほかにも知ってるけど
冷たい他のたくさんのマリアたちとは合わない
マリアは特別なマリアさ
マリアだけがかけがえのない

マリアなら ありふれた名前だが
あなたは誰も まだ見たことのないマリアだよ
マリアなら ありふれた名前だが
あなたはぼくが ただひとり愛したマリアだよ

言い争いその2

この歌もカップルの言い争いの話らしいが、こっちのほうが深刻そうだ。
私も経験のあることであるが、言い争いというのはときにそれ自体が目的化してしまうことがあり、非常に困った状態になる。
そんなわけで、元の歌詞を聴きながらなんとなく「ためにする議論」という言葉が頭に思い浮かんだ。
しかし念のために調べてみると、「ためにする議論」というのは、こういう目的化してしまった議論のことではなく、あらかじめ結論を決めているような議論のことを言うのだそうだ。日本的というかなんというか……、こういう意味を微妙に取り違えている言葉というのが結構あるもので、これもまた困った状態である。

Discussao 議論
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/discussao.mp3

意固地になって 聞く耳もたない
売り言葉に買い言葉だけの議論
あなたの心は幸せになるの?
勝ち負け以外に何かがあるはず
心の迷いをあなたは
いつもの理屈と意見で隠すの? 隠せない
大切なもののすべてを失う
孤独と愛の違いも分からない

言い争いその1

世の中には言い争いばかりしているカップルというのがいて、そういうのが意外に仲良しということになっていたりする。
私などから見ると、仲がいいとか悪いとかいうより、そういう人たちは元気がありあまっているのではないかと思う。
当然のことではあるが、ブラジルにもそういうカップルが結構いるようである。

喧嘩はよそう
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/brigas.mp3

笑顔が 涙にかわる 私あなたを慰める
仲直りしよう あやまるから
今は少し我慢しよう
そのあと 私が泣く
こんどはあなたが慰めてくれるよ
愛はもっと深まるのさ
仲良くしよう 喧嘩はよそう

2011年6月7日

夜明ケ

私の好きなマンガにしりあがり寿先生の『夜明ケ』というのがあって、だからというわけじゃないが、「夜明け」という言葉さえ入っていれば、勇気がわいてくるようなところがある。
そんなわけでこんど訳した曲も、非常にネガティブかつ暗いが、私には何やら希望が感じられる……。

E Preciso Perdoar 許してあげよう
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/perdoar.mp3

ああ、夜明けが告げる 悲しみの歌
私は今、心決める
夢は消える 恋は終わる

愛すること 与えること 許すこと
間違うこと 恐れること 迷うこと

でも、これで終わりさ
あなたは決して変わらないし
苦しむのはいつも私 恋は終わる

科学あれこれ

ジェニファー アッカーマン『かぜの科学―もっとも身近な病の生態』
ウイルスによる風邪は、冷えることが原因とはなりえないというのが、いまだにぴんとこない……。
ここで否定されている風邪の治療や予防のあれこれを読んでいると、いろいろな思い込みというのは、死んでも治らないというか、科学的に考えるなんて私には無理だとも思えてくる。

アンドリュー・キンブレル『すばらしい人間部品産業』
そして、科学の進歩というよりも、この社会で当たり前とされている哲学のほうが問題というのが、たぶんこの本の立場。
私もまあそうかもとは思うが、この本はちょっと読むのがしんどかった。
もう少し多面的に書かれていれば、説得力も増しただろう。

シーナ・アイエンガー『選択の科学』
3冊のなかで一番はこれ。ただし、原書のタイトルはThe Art of Choosing、サイエンスじゃなくてアート(技)としての選択。まあ、日本で売るには妥当なよいタイトルだとは思う。
たとえば、スーパーで品揃えを豊富にすると売り上げが下がるという話は、私のようにサブウェイ的な「オプション」にうんざりしているタイプにはピンとくる。
ちょっと前に流行った(?)行動経済学の話に近いが、この著者にはそれとちょっと違うしゃんと背筋の伸びた誇りのようなものを感じる。
選択というものの不思議さ、尊さ、神秘をそのまま受け入れている感じがするのだ。
そういうとき、科学というのはそのまま芸術にもなりうるのかもしれない。
私たちは無限に枝分かれした選択の森を生きているように感じることがあるが、そんなとき、ふと紐解いてみることをおすすめする。

以下、ちょこっと引用。
選択は、最良の状態では、主導権を取り上げようとする人々や体制に抵抗する手段となる。だが選択の自由がだれにでも平等に開かれているという建前がふりかざされるとき、選択そのものが抑圧になる。選択は、性別や階級、人種差などから生じる不平等を無視する口実になる。

2011年5月10日

世代から世代へ 話から話へ

ポピュラー音楽研究の世界にも新しい世代が台頭しつつあるようで嬉しい。

大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』
輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』

どちらも、すばらしい。
ページをめくるたびに新しい発見があるというような読書は、そう頻繁にあるものではない。

考えてみると、昔から演歌や黒人音楽、あるいはロックなんかについて書かれたものに違和感を感じることが多かった。
演歌が日本のブルース? ブルースは底辺の人間による抵抗のうた? え、ジャズもロックも抵抗ですか?
なんか妙に力が入ってるかなり上の世代。んでもって、こんどは逆に思想だの歴史だのは無意味とか強調しだした、ちょっと上の世代……。
ようやく、音楽の歴史も思想も経済もテクノロジーも、わりとニュートラルに語れる世代が出てきた感じがする。

(私はこれまで、自分を含むこの世代は「橋渡し」みたいな地味な役割を担うんじゃないかと、ぼんやり思ってきた。ホリエモンの世代でしょって言われるのは、悪くないけど、ちょっと違うなという感じ。
いや本当はホリエモンも、上と下をつなぐ橋渡し役なのかもしれない。)

あともしかしたら、ラテン音楽に対する意識が高いのも、この二人の共通点かもしれない。
ほぼ同世代というだけでなく、そんな意味でも親近感がわく。
最大限の賞賛をおくるとともに、今後とも応援したい。

2011年5月7日

猫と雀

いつも一般性の低い本の話ばかりで恐縮だが、お勧め本というより個人的な読書記録ということで、どうか大目に見てほしい……というこのコーナーであるが、今回は動物の本二冊。「お勧め」でも行けるんじゃないか思う。

ところで、私は今マンションの7階という生涯最高地点で暮らしているのだが、こんな蚊すらあまり近づかない場所にもときどき、動物の気配がある。
猫と雀だ。
猫はご近所さんが放し飼いに近い形で飼っているらしい。ときどき、窓の外をアクロバティックに移動したり、こちらを窺ったりしている。
先日、近所で猫を呼ぶ子どもの声がして「チビ、チビ」と聞こえた。
なんと、ちょうど読んでいた本(平出隆『猫の客』)に出てくる猫と同じ名前だ。フリーランスの子どもなし夫婦といい、他人事とは思えないが、やっぱりだいぶ違う。

この本に描かれるのは、猫それ自体というより、猫を愛してしまう人間の心のほうだ。
美しい文章で淡々と描かれるチビをめぐるストーリーはあっけなく終わるが、最後に小さな謎を残す。読後感がいいとは言えないが、私のようなまっとうに動物とつきあった経験のない人間にはぐっとくる。
たぶん、ムツゴロウさんなら鼻で笑うだろう。

窓の外にときどきやってくる雀は、猫とは比較にならないほど、さらに交流が困難な動物である。
私などは、視線を向けただけで逃げられる。
そういう意味で、クレア・キップス『ある小さなスズメの記録 人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯』は驚くべき本ではある。
生まれた直後から老衰で死ぬまでの雀の記録。ピアノとともに歌い(聴いてみたい)、飼い主と友情を結んだ雀……。
訳者はかの梨木果歩だし、いかにも文句なしの名著といった風情。
とはいえ、読みながらなんとなく違うと感じた。中身が特に悪いというわけではないのだが、たとえば、この日本語タイトルの物欲しげな感じが気になる。
原タイトルのSold For a Farthingは、ほとんど逆の意味だろう。

私は動物への過剰な愛情表現みたいなものが苦手で、その点でかなりひねくれているのだと思う。
憧れとともにこれらの本を読むと、少し悲しくもなる。
そして、窓辺に何か生き物がこないかと思って少し待ってみるが、猫も雀もそんなときに姿を現すことはない。


2011年5月5日

ペルシャ細密画の世界を歩く

出たらいいなあと思っていた本。

浅原昌明『ペルシャ細密画の世界を歩く』
この分野の概説書は、美術全集などを除けばほとんど皆無といっていので、大変ありがたい。
とはいえ、記述はかなり教科書的だし、いきなりこの本を読んでも訳がわからないかもしれない。
なので、ここでは私がこの世界に興味をもつようになったきっかけの本を挙げておきたい。

山田和『インド ミニアチュール幻想』
文庫になっていたのか! というわけで未読の方はぜひ。
美術を語ったものというより、骨董紀行みたいな感じ。
十数年も前に読んだ本だが、大英帝国時代のインドの地図について書かれた一あたりの情景がいまだに記憶の片隅に残っている。

オルハン パムク『わたしの名は「紅」』
こちらはノーベル賞作家による、トルコを舞台にした小説。

ペルシアじゃなくてインドとトルコ、それも紀行と小説じゃないか、というわけで、平易な解説書はありがたいわけである。
そんなわけでペルシア細密画の教科書的な話に戻ると、「七つの特徴」というのが書かれている。
それによると……
「六、地面の向こう側から人物の顔が、こちらをのぞいているように描写」とある。
「地面の向こう」とはヘンテコな表現であるが、確かにそんな状態。
なんというか、穴から上半身だけ出たモグラのように、背景にいる人々が向こう側からこっちを見ているという感じでユーモラスなのだ。

以上の記述は、別にペルシア細密画の神髄とはまったく関係がない。
西洋美術の世界に飽きてきて、こういう絵に惹かれるようになったのは、年齢かもしれない。
一方で、微笑を誘うような絵が好きといえるようになって嬉しいという感じもある。


2011年4月28日

ボールとたま(読書)

いろんな意味で対照的な2つの本だが、どっちも好きだ。

若宮健『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』
文章も内容も繰り返しが多く、まるで整理されていないが、正義感に満ちた本。最近、ようやく原発の悪口を公の場で誰もが言えるようになった感じがするが(そうでもないのか?)、パチンコはまだまだな気がする。
パチンコは球がないと成り立たないと思ってたが、韓国のそれは「球なし」だったようだ。つまり、たまは「遊戯である」という苦しい言い訳に相当するが、本質は「たまのないところ」にあるわけだ。

平出隆『ベースボールの詩学』
詩人によるベースボール論であり、同時にボールの形をした詩論でもある。本自体がひとつの詩のような、ある意味で完全な姿をしている。こういう本は、これからなかなか生まれにくいのではないか、とぼんやり思う。

小学生の頃、私は野球チームに所属していて、それなりに野球を愛していた。もっと遡れば、公園や道路でカラーバットとゴムボールの野球を日が暮れるまでやっていた世代。怪しげな妄想とともに一人で壁にむかって野球をするのも、楽しかった。
不幸なことに、その後、野球とはどうも仲良くなれない。たぶん、野球を愛していたのに、自分があまりに下手なのでギャップが大きすぎたのだろうか? 
剛速球を打撃する欲望というこの本の中心テーマはすごく理解できるのだが、「そうだよね!」と力強く言い切れないのがもどかしい。まあ、野球の上手な人はこんな本を読まなくても十分に幸せということかもしれないが……。

南国系?(読書)

サルマン・ルシュディ『ムーア人の最後のため息』
インドとイベリア半島の関係を背景に描いたルシュディ(ラシュディ)の壮大な小説。個人的にちょっと思い入れのある本で、十数年翻訳を待っていた。ストーリーは非常に濃密であり、確かに「究極のマサラ小説(帯のコピー)」かもしれない。

和田昌親『ブラジルの流儀―なぜ「21世紀の主役」なのか』
気楽な読書ではあるが、内容が薄すぎる気も。こういう本が普通に出るくらい、ブラジル経済が好調ということだろう。

西條勉『「古事記」神話の謎を解く―かくされた裏面』
海幸・山幸と浦島太郎とか「日向三代の物語」のところが印象的だったので、私のなかでは、これも「南国系」。
関係ないけど、最近私の母が兄に日本神話を読み聞かせる古いテープが発掘された(スサノオが泣いて暴れたりするところ)。結構力が入っていて、迫力がある。私は童話とか絵本といったものより、神話や昔話みたいなもののほうに魅力を感じることが多いが、たぶんこの辺にルーツがある。

2011年4月11日

Japao (A Paz)

ジョアン・ドナーとジルベルト・ジルの共作で「A Paz(平和)」という曲がある。
歌詞には「Japao」という言葉が入っていて、少しどきっとする(詳細はここに書かないけど)。
私もだいぶ前に訳して歌ってみたのだが、A Pazというところをへいわ~♪と歌うとどもしっくりこなくて、最近は歌わなくなっていた。
尊敬する大貫妙子さんは、この曲に「Japao」というタイトルをつけて歌っている。

Japao 渡り鳥の群れ 北へ帰る春
月夜の島影 またたく漁り火 入り江のさざめき
……
Japao あなたと歩こう 手をつないで歩こう
あなたのいる場所 いつか帰る場所 その胸のなかへ


という感じ。これのほうがずっといいかもと思うので、次回のイベントで歌ってみることにしよう。
「ジャパン」と名のつくイベントを考えたのは、ほんの偶然で軽い意味しかなかった。
今は、少し重い感じもあるのだけど。

私はイベント冒頭に、これを含めて2曲ほど演奏する予定です。
その後、ノヴ吉田さん、heliさん、柴原公明(しばろん)さんが素敵なライブをやってくれます。
また、こんなときなので、出来るかぎりお客さんにも演奏していただいて、みんなで楽しめるよう、飛び入りの時間も設定しました(9時半くらいから)。

ぜひ、気軽に遊びにきてくださいませ。
歌ったり、おしゃべりしたり、飲んだりしましょう。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★
ボッサ Made in Japan@大塚
2011/4/17(日) 19:00open 19:30~
Charge 1000円+オーダー
場所: Espeto Brasil (豊島区南大塚3-29-5光生ビルB1)
http://aka.gmobb.jp/espetobr/index.html

*チャージは演奏者のカンパを加えて今回の地震被災地への義援金となります。

選挙メモ

特にまとまった考えがあるわけではなく、差し迫って誰かに意見を伝えたいとかいう話でもない。
なんとなく気になったので、後で自分で確認したくなるかもしれないし、メモしておく(老化)。

奇妙な選挙だった。都知事選の結果はほぼ予測通りだったし、結果がどうという話ではない。
そもそも、ほとんどの人に今、選挙とかやってる場合なの? という思いがあったんじゃないだろうか。
それでも、奇妙な「義務感」があり、人々は動いた。静かに、淡々と、表情を変えずに。
なんていうか、選挙自体、自分を含めた「幽霊たち」がやってるような、そんなヘンテコな印象があった。いまひとつうまく言葉にならないので、もどかしいのだけど。
でも、なんとなくこの雰囲気は不吉だし、危険な香りも少しする。

以下は、私自身の投票行動など箇条書き。
・長いことAdios Americaという曲で「石原いらない」と歌っている通り、反石原を標榜している。嫌いなのは、特に彼がレイシストだという点だろう。
・混乱に乗じて「東ブーム」みたいなのが起きたら、石原支持もありうるか? などと考えたが、起きないようなので、いつも通り共産党に入れた。今回は原発のこともあり、もう少し善戦するかと思ったが、それはなかったようだ。
・自分たちの「発電機」が大暴れし余所さまで迷惑をかけ、都民もびびってるときに「東京は日本のダイナモ(発電機)」。あまりにも不謹慎すぎるのか、単に訳がわからんのか、誰もとりあっていない様子。
・わりとまともに見えるのが極右(?)と共産党、という状態は、しんどい。
・減税党は地方レベルだと正直よく分からないが、国政レベルなら意味もあるんじゃないのかと、ぼんやり思う。復興の話をすると必ず財源、とかいってブレーキをかけてる今の状況はよくない。

2011年4月9日

かみさまのごかご

とことん愉快で元気な曲にしようと思ったのだが、出来てみるとそうでもないかな。
ひねくれた陰気な性格はよくない、と本当に思う。
ジャヴァンみたいな、かっこよくも楽しい演奏はできないし。
でも、精一杯の脳天気さ、根拠な希望、から元気などをこめてみました。
「神さまのご加護、きっとあるよ♪」

ジャヴァン「神さまのご加護 E Que Deus Ajude」
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/deus.mp3

仕事やめよか 未来のスター
あしたリオデジャネイロゆく 高速列車にとびのる
昨日の僕にはさよならさ さよなら

あした晴れたら出かけるのさ
夏は)リオデジャネイロゆく 2月はすてきな季節さ
昨日の僕にはさよならさ さよなら

誰もあらがうことのできぬ魅力でアメリカも夢中
行く当てのない広いリオデジャネイロで
神父の友だちが 友だちの 友だちが「神さまのご加護あれかし」と
あるといいね あるかもね
「神さまのご加護あれかし」と あるといいね あるかもね
あるかもね きっとあるよ きっとある

2011年3月31日

読書など

あれ以来、しばらく読書の記録もつけてなかった。
読んでいた本は、なぜか20世紀クラシック音楽に関するものが多かった。

岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?―音楽史における第一次世界大戦の前後』
これは入門編という感じ。

モードリス・エクスタインズ『春の祭典 新版――第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』
背筋が凍るほど恐ろしく、しかし面白い本。やや極端な見解も含まれるが、とても刺激的だ。

アレックス・ロス『20世紀を語る音楽』1、2
このテーマ(20世紀クラシック音楽の通史)にしては、確かに読みやすい。
上下巻でボリュームがあり、最後は気が遠くなってきたが、ミニマルとか比較的なじみのある話になってくると、じわじわ感動してくる(長い本というのは、こういう意味のない感動成分もある)。
巻末に音源案内もあるので、少しずつCDを聴いてみようと思う。

アジット・K・ダースグプタ『ガンディーの経済学――倫理の復権を目指して』
これは音楽関係じゃないけど、タイトルに惹かれて。
倫理と経済というこのテーマはいろんな意味でとても重要だと思うので、ぜひ日本の意欲的な筆者による新書レベルでわかりやすい本を読んでみたい。

変わってしまったものもあるし、変わらないものもある。
ところで海外のみなさん、この事態にあって冷静な日本人をあまり称えすぎないでください。
私たちは、恐れで凍っているだけなのです。本当は泣きたいし、叫びたい人もたくさんいる。
もっと泣こう。それから、笑える人から、笑おう。
そして、周囲にある「悪いもの」に気づいても、ヒステリックに叩かないようにしよう。
自然の猛威よりも人間が恐ろしい、という風にならないように。

被災したすべての人々のために祈ります。

2011年3月2日

花と棘

ほんのたまに、この曲を日本語化できないかといわれたりする。
嬉しいけど、結構冷や汗ものの場合もある。思い入れのある曲だったりすると、がっかりさせる可能性のほうが高いだろうし。
今回は、4月にライブでご一緒させていただくノヴ吉田さんからの有り難いご相談である。正直いって、知らない曲だった。
そして、こんなことがなければ、たぶん自分から日本語化することはなかった曲。
でも、なぜかえらく楽しくできた。
大人の男と女。お子様な私にはちょっと不思議な、でも少し覗いてみたい世界ではある。

花と棘
A flor e o espinho (Nelson Cavaquinho, Guilherme de Brito e Alcides Caminha)
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/espinho.mp3

君の笑顔さよなら
ここには痛みがある
今の私は棘よ
花には触れない
太陽を愛しても月は
君のそばにはいられないよ

鏡に映る心はまだ
こぼれそうな涙をこらえ
花にはなぜ 棘がある?
愛を傷つける棘よ

2011年2月8日

スウィングタイム、あるいはもうひとつの日本文化

古い日本のジャズ、とりわけ戦前のものに心を惹かれるという話は前にもどこかで書いた。
そんなわけで、毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』は、期待して読んだ。帯には「昭和文化史の書き直しを迫る」とあり、勇ましい。確かにすごい情報量で、戦前にこれほどのジャズ文化が花開いていたんだということは伝わってくる。
そのうち、CD化されているのはごく僅か。もっとたくさん聴いてみたい。

とはいえ、読み進めていくうにちなんだか飽きてきてしまった。「ホットな演奏」だの「レベルが高い」だの「凝ったアレンジ」だの「アメリカンなフィーリング」だの、音の説明を聞いていても何か違うという気がしてしまう。
まあ、私自身ホットでもないしレベルも低いし、音楽に対するそういう見方が苦手というのもある。
私が漠然と惹かれている「戦前のジャズ」は、もうちょっと違うもののような気がした。もしかしたら、それは本当はジャズですらないのかもしれない。

そんな風に思いはじめたところで、読んだのが渡辺裕『日本文化モダンラプソディ』。これが、とにかく面白い。もっと早く読まなかったのが悔やまれる本だ。
邦楽改良と「新日本音楽」、大阪における洋楽の受容、宝塚と国民劇構想といったテーマを語りながら(その細部もひとつひとつが面白い)、今はなくなってしまった「日本文化のもうひとつのあり方」について語る。それは無理に要約していうと、折衷的であり、革新的であり、ついでにやや帝国主義的なものだ。
私が「戦前のジャズ」というものに惹かれていたのは、もしかしたらこういう部分であったかもしれない。もし、音楽をはじめとする文化をめぐる歴史が別なものになっていたら……という想像をかきたてられるだけでなく、自分のなかには隠れた右翼的な部分にも目を向けさせられる。
読みながら、「外に対しては自分もよく知らない日本文化を誇り、内に対しては外国文化の『本場度』を誇る」という訳のわからない態度の奥にある問題の根は深いなと思え、やや暗い気持ちになった。そういえば、私自身もそれとまったく無縁というわけではないし。
なんにせよ、とにかくお勧めの本です。

2011年2月7日

カエターノ特集その3(同性愛?編)

カエターノはこの2つの曲で男性の美しさ、素敵さについて歌っているようだ。

リオの少年 Menino do Rio
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/menino.mp3

レオンジーニョ Leaozinho
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/leaozinho.mp3

どちらもすごくいい歌詞なのだが、特にMenino do Rioのほうは、どうしても同性愛っぽい感じになってしまう。それでいいのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。その辺を超越した強さをもたせたいのだけど、私の力ではちょっと無理かなあ。

リオの少年♪
リオの街の 焼けつく日射しの
ドラゴン 入れ墨の腕も
短パン はだけた胸も
心 打つほどに美しく
風がふけば 彷徨う君のことを
思い出し 祈るよ

ハワイ? ここで夢見ればいい
胸のおく 波の音は
君の心 僕の心

Menino do Rio 君のための歌
キスとともに贈ろう

2011年1月12日

短編集の一作目、アルバムの一曲目

冒頭の作品というのは、セールス的な意味でもキャッチーな力作を置くことが多いんじゃないかと思う。
少なくとも私はアルバムの一曲目に思い入れのあるものが多く、極端にいえば出だしの思い出せないアルバムというのは、イコールあまり好きじゃないアルバムと言えるくらいの気もする。
長編小説なんかでいえば、冒頭の一行に近いのかもしれない。場合によっては作品全体を決めてしまうような力があるわけだ。

さて、『変愛小説』は「れんあい」じゃなくて「へんあい」だそうだ。
恋と変の字が似すぎていてやや地味なタイトルになってしまっている気もするが、とても面白いので2冊とも読んでしまった。
ストレートすぎる恋愛小説はさすがに読むのが恥ずかしいんだけど、これなら、というところかもしれない。んでもって、どちらもみごとに一作目だけが記憶に残りそうで、それはそれでやや損をしたような気分もなくはない。
一冊目の冒頭は、木に恋した人を描いた散文詩のような美しい作品。
二冊目の冒頭は、イケメンばかりの島に流れ着いたギャルの愉快な語り。「彼氏島」というタイトルも、とにかく笑える。
どっちも、訳者である岸本佐知子さんの力量がなくてはここまで素晴らしくならなかっただろう。

ところで、たぶん時代は捨て曲は買いたくない、好きなものを好きなだけチョイスして読む、という感じなのだろう。本一冊、レコード一枚とかいう物理的な大きさはもう意味がないし。もしかしたら、2冊の短編集のうちでこの2作を読めばいい、という考えも成り立つのかもしれない。
しかし、なんとなく寂しい気がする。
装丁とかジャケットデザインも大事だけど、どちらかというと、この物理的制約による「無駄」や「余計なもの」「駄作の入り込む余地」がなくなってしまうのが、寂しいのだろう。
(とりあげた短編集に駄作がたくさんあったという意味ではありません)

2011年1月2日

謹賀新年(うさぎあれこれ)


新年早々いきなりドメスティックな話題で恐縮だが、わが家は夫婦ともにフリーランスなので非常に不安定な仕事っぷりである。
なので、年賀状くらいはちゃんと書いて人々に思い出していただき、仕事でももらえたらなあなどと都合のよいことを考えている。もう年賀状なんかいらないんじゃないの? という意見もよく聞くようになり、私も「そうかも」とは思うのだが、そうなると、本当にダイレクトメールを出さなくてはならなくなるかもしれない……。

年賀状製作は妻の得意分野なので、私は主に横で見ていて応援するくらいなのだが、図案のアイディアをあれこれ言ってうるさがられたりもする。今年は兎年ということで、「ミッフィーとキャシーが仲良くお茶してるところはどうかね」とか「大きな日の出の写真に点ふたつと×つけようか」とか、なんとかミッフィーを忘れようと苦しんだ。私にとってうさぎ界におけるディック・ブルーナの存在は、いわばボサノヴァ界におけるジョアン・ジルベルトに近いものがあるのだ。
そんなこんなで、今年もますます調子はずれにやっていこうと思いますので、みなさまどうかよろしくお願いいたします!