2008年11月23日

ファロリート

Farolitoを録音してみた。
ジョアン・ジルベルトの「エン・メヒコ」というアルバムに収録されている。メキシコの歌らしい。
大好きなアルバムなのだが、「不遇の時代」とか表現されるメキシコ滞在がジョアン・ジルベルトにとってどいう意味をもっているのかは、さっぱり分からない。

2008年11月15日

暇とサウダージ、風邪

景気が悪いと仕事が少ないのは、まあ仕方ないとして、自分の心が少しずつ荒んでくるのを感じる。こういうときこそ、人には優しくし、そして美しいものをつくりたいと思うのだが、そういう邪念がすでに景況感の悪化を示しているのかもしれない。
そして、こうも暇が続くと悪い考えやら風邪やら、いろいろやってくる。
サウダージもやってくる。

『ぼくのサウダージ』
サウダージとは何か、とは説明しにくいのだが、この曲はちょうどぴったりかもしれない。
失われたものへの執着とか欲望が消えた後に残る「何か」なんだろうか。

以下は、読書メモ。

佐藤優『自壊する帝国』『国家の罠』
今まで読んでなかったのだが、ふと文庫を手にとったら面白そうだったので。
特に前者のほうで、ロシアでウォッカを飲みまくりつつ、神学や政治の話をするところなんかが非常に面白い。
これを読んで、昔、私もチェコに行きたいと思って外務省の試験(アルバイトみたいなやつ)に落ちたことを思い出した。

関口義人『ジプシー・ミュージックの真実』
真実とはまた大きくでたなという感じもするが(内容もちょっとそんな感じ)、ディスクガイドなどはとても訳に立つ。

岩波明『狂気の偽装』
心の病という一種のブームを批判しつつ、医療に携わる者としての実感から現場の報告をするという感じ。
中身は、やや中途半端な気もする。

ジャンニ・ロダーリ『二度生きたランベルト』
特にコメントなし。

岩井克人・佐藤孝弘『M&A国富論』
優れた政策提言の書。

2008年11月5日

じょうずはこわい



福岡伸一「できそこないの男たち」
タイトルで嫌な予感はあったのだが、前著に感心したので買ってみた。
感想は「上手な文章って危険だな」というもの。
(上手な演奏にも似たところはあるだろうが、文章ほど危険ではないかもしれない。)
最後のほう、男という存在についてあれこれ想像をめぐらせるあたりは、飲み屋の与太話なのだが、彼が書くと結構サマになってしまう。
男系による皇位継承の話に、チンギスハーン由来のY染色体が今も旧帝国の版図で8%も見られるという話が続くのは、ちょっと面白い。



逆に、文章がちょっとたどたどしいけど、そこがまさに主張と一致していて感心したのが、
後藤和智「おまえが若者を語るな!」。
私もオッサンになってきたので、「世代論」や「若者論」の大好きな人と飲み屋へ行ったりするようになった。違和感はありつつも、まあテキトーに流してきたわけだ。救いというか、より悲惨なのは、若者への批判は大抵私に対しても当てはまるので(笑)、私がヘンに若者を擁護することになってしまうことだ。
まあ、そんなこんなを考えると、「世代論」はなるべくしないほうがいいと私も思う。それが宿命論的な意味合いをもってしまうというのも、著者の言う通りだろう。とりわけそれを芸として利用してきた宮台真司やら香山リカへの痛烈な批判はもっともである。
そして、著者自身にいまいち「芸」がないところも、ある意味、この本の正しさを補完しているわけだ。

2008年10月31日

大塚ライブ

鬼子母神で都電に乗り換え、大塚まで。
体調はいまひとつだったが、「チンチン」の音とともに電車が走り出した瞬間、なんかいいライブになりそうな予感がした。
そんなわけで、私にしては珍しく、割と安定したいい演奏だったように思う。
共演の米山さんも、少し調子外れの音が素敵なアンデスを駆使して、いい具合にやってくれた。
それにしても、お客さんが少なくて残念。
ブラジル料理も美味しくて、いつも楽しい雰囲気の店なのに、寒風が吹いていた(笑)。

トローリーソング


三月の水

ボサツノバ@だあしゑんか

先日行われたボサツノバのワンマンライブ@だあしゑんかの模様。
ご本人によると、ワンマンライブというのは初めてらしい。
たっぷり2時間、ギターと歌だけで繰り広げる世界は、一種の曼陀羅のようだと書いても、まあそれほど罰当たりでもないだろう。なかでも炭坑節やらCan't Take My Eyes Off Youやらをとりまぜたナンバーは美しくも楽しくて素晴らしかった。「仏教色」の強いレパートリーもいくつか披露。自分のやってる店のことでなんだが、これほどお得なライブは、あまりないのではないだろうか……。

*思い出してみると大変恥ずかしいのだが、私の最初のライブはワンマンだった(それも2時間くらいの)し、その後も半分くらいはワンマン(つまり自主企画)である。私自身は、ワンマンは無茶だからこれからやめようかなと思っているところだ。

2008年10月23日

シリアの花嫁とオフサイド・ガールズ

今回は珍しく映画の話だ。
友人のお誘いで『シリアの花嫁』という映画を見ることになった。
ゴラン高原のイスラエル占領地から、シリア側へ嫁ぐ結婚式の一日を描いた物語。
複雑な政治情勢を誰もが共感できる「家族の物語」にしっかり落とし込んだのは、素晴らしいと思う。
エンターテインメント性もちゃんとある。
NHKのドキュメンタリーなんかで、谷間の境界線を挟み拡声器で話す住民の様子を見たことがある人もいるだろう。このあたりの問題に興味のある方はぜひ映画を観てほしい。

とはいえ、私としては、大声では言えないような小さな不満が胸の奥に残った。
真面目で立派なよくできた映画ではあるけど、この映画には何かが足りない気がしたのだ。
映画ならではの「魔法」みたいなものだろうか。
もちろん、NHKのドキュメンタリーを観るより、ずっと強い印象は残す。でも、その延長線にあるような感じがしないでもなかったのだ。

どんな映画にそんな魔法があるのか、ということで、
今年DVDでみたイランの『オフサイド・ガールズ』を紹介したい。
男性社会で翻弄される女性たち、というテーマは、それなりに似ている。
だが、こちらは不真面目というわけでもないが、サッカー観戦をしたい女性たち、という政治的にも些細な出来事を描いている。出てくる「ガールズ」も、みな人格者とは言えない。
『シリアの花嫁』なんかに比べると、明らかに分が悪い。全然、立派じゃないのだ。
けれども、私はこの映画に夢中になったし、最後までその世界に吸い込まれたままだった。
『シリアの花嫁』を観ながら、いろいろ考え事をしてしまったのとは、ずいぶん違う体験だ。

私が言いたいのは、どちらが優れているということとは、ちょっと違う。
検閲の厳しいイランでささやかな反抗を試みることと、別の意味でやはり厳しい状況にあるイスラエルにおいて、センシティブな政治問題を正面から扱うことは、同列に論じるべき事柄ではない。
けれども、ひとつの映画のなかにある「立派さ」「真面目さ」、もうひとつのなかにある「ユーモア」「悪戯」。
結果的にはどこか似た結論で終わってる2つの映画だけに、これは、比べずにはいられない。
面白い作品の創作というのは、そもそもやや不道徳的なことなんじゃないだろうか、と考えてみたりする。

2008年10月14日

観光局のサンバ

バイーアというところがどんな場所か説明するのは難しいのだが、
日本でいえば、那覇と京都を足して二で割った感じといったら、
いい加減すぎるだろうか。

とにかく、サンバにはバイーア礼賛ものが多い。
郷土料理とかお祭りとかの固有名詞がたくさんでてきて、非常に困る。
とはいえ、言っていることは割と単純であったりする。

ドリヴァル・カイミ「君はもうバイーアへ行った?」

この曲を聴くと、ディズニー映画『三人の騎士』を思い出す。
ドナルド・ダックにブラジルの素晴らしさを紹介するジョゼ・カリオカにこのまんまな台詞があるのである。
私もまた、こういうバイーア・ソングの数々に誘われてかの地を訪れた観光客の一人だが、
結局のところ、その素晴らしさは結局よく分からなかった。
もちろん、すごく、いいところなんだけど。

ジプシーとアンパンマン

「だあしゑんか」という店ではブラジル音楽がよくかかる、というのは予測された事態であろう。
ハンバーガー屋でインド音楽がかかっていたら面食らうかもしれないが、
居酒屋でボサノヴァがかかっていても、もはや誰も驚かないのである。

古いサンバやカリブの音楽などが半分くらいを占める一方、東欧の音楽も少しかかる。
チェコ音楽はわずかで、ハンガリーやバルカン半島のものが多い。
このあたりの音楽を聴いていると、トルコやアラブまで地続きであることを感じる。
ヨーロッパとアジアは完全につながっているのである。

アンガス・フレーザー『ジプシー 民族の歴史と文化』。
ジプシーやロマ、ロムなどと呼ばれる多様な人々の歴史を概観するにはもってこいの本だと思う。
個人的には、「ジプシーには共通の音楽言語は存在しない」「創造者としてよりも継承者あるいは編曲者として、まわりの社会に特徴的な音楽をとりあげた」といった音楽関係の記述にとりわけ興味をもった。
また、婚姻習慣や移動生活といったことよりも「タブー」「穢れ」の概念がジプシー文化のなかでもっとも普遍的に見られる特徴であるとの指摘。
これがなかったら、たぶん彼らはあれほど過酷な歴史のなかで独自性を保つことはなかったんじゃないだろうか。
適切とは言えないかもしれないが、たとえば、ブラジルの日系人や在日の人々なんかと比較してみると面白いかもしれない。
文化を生き長らえさせる原動力は、どうやら愛国心とか民族的誇り、教育とは限らないようだ。



もう一冊、全然関係はないが、
やなせたかし『アンパンマンの遺書』。
私はアンパンマンにはまったく馴染みがない。
しかし、なんということはなしに読み始めたら、これが実に面白かった。
名文というか、とても味わいのある自叙伝。
お勧めです。

2008年10月12日

一区切り

終わりというのは唐突にやってくるもので、しかも、それは実にあっけなかったりする。
一週間ほど前、「ボサノヴァ日本語化計画」のサイトから音源を削除することにした。
大変、辛いことだ。
まあでも、仕方がない。
私自身にとっての音楽や歌が終わったわけじゃないし。
しばらく、おとなしく地下に潜って「あな☆ホリデー」でも歌おう。

2008年10月3日

ナショナリストのサンバ

Canta Brasilという曲を録音してみた。

As selvas te deram nas noites seus ritmos barbaros
Os negros trouxeram de longe reservas de pranto
Os brancos falaram de amores em suas cancoes
E dessa mistura de vozes nasceu o teu canto

というのが最初の部分。面白いので、直訳ぎみに訳すことにした。

深い夜の森に響くリズム
黒い肌が歌う悲しみ、涙
白い肌、ささやく恋の歌
まざりあうたくさんの声

サンバの歌詞には、こういうものがけっこう多い。
ブラジル万歳調。しかも観念的、抽象的なやつ。
いくつかは、ボサノヴァのレパートリーとしてもよく歌われる。「ブラジルの水彩画」なんかも、その一例だろう。
ここで歌われている人種の混合は、ほとんどブラジル国家の「公式見解」であり、
たとえていうなら「平和国家、日本」みたいなお題目、理想である。
実際のところ、ブラジルにも人種差別は当然あるわけだが、サンバという夢の世界では、それは消えてしまっているのだ。
私のような日本人がこういう歌に惹かれるというのも、ヘンテコな話ではある。
(たぶん日系人は、この「黒い肌」「白い肌」が生んだサンバの世界に、簡単に入れてもらえないだろう。)
とはいえ、そういう胡散臭さをはらみながらも、こうした愛国サンバの魅力は否定しがたい。
ブラジルは、サンバという大衆音楽の一ジャンル(にすぎない、しかも被支配層の)を、いわば国家のアイデンティティ、象徴として採用した稀有な国だと思う。
このほとんどアクロバティックともいえる出来事は、たとえばジャズやロックをいつのまにか横取り(?)してしまったアメリカの白人と比べると、より際立って見えると思う。
ブラジルの支配層がなんでこんなことをやったのか、私には正直いってよく分からないのだが、このことがブラジル音楽の特別な面白さにつながっていることは、ほぼ間違いないだろう。

2008年9月30日

ジルベルト・ジル(2)

ジルベルト・ジルの真似はできないと前に書いたが、悔しいので一応やってみた。

Aquele Abraco 演奏&歌 by OTT

「アケリ・アブラッソ」とは抱擁を意味し、リオ・デ・ジャネイロでは別れの挨拶がわりに使われるらしい。
ジルベルト・ジルが故国を追われ、イギリスへ亡命する前に書いた代表曲で、リオという街への愛情がこめられている。
これだけ聞くと、「まあ、いいんじゃない?」と思われるかもしれないが、
やってるほうは、本当に苦しい。なんというか、音楽が「自分のもの」にならない感じなのだ。

参考のために、ご本尊の演奏も。


ちなみに私の妻はジルベルト・ジルについて、珍しくこのように論評していた。
「音楽が簡単に国境を越えるというのは、たいてい嘘に思える。
だが、ジルは確かに越えている」
どこかの偉い評論家が書いた文句みたいで面白いので、書き記しておこう……。

ボサツノバ・ライブ


前にもこのブログでちょっと触れたアーティスト、ボサツノバ。
こんど「だあしゑんか」でライブをやってもらうことになった(10月26日)。

「ボサノヴァ弾き語りをするお坊さん」で「菩薩ノバ」というと、
なんだかただの冗談にしか思えないかもしれないが、
ぜひ、騙されたと思って一度体験してほしい。

あらゆるジャンルのカヴァーや替え歌、オリジナルが融合し、
驚きや笑いとともに音楽そのものの楽しさが感じられる演奏と歌は、ちょっとした言葉だけじゃ説明しにくい。
私が知る限り、今、東京近辺でもっとも刺激的な弾き語りだ。

菩薩ノバHP

2008年9月12日

ジルベルト・ジル

昨夜、ジルベルト・ジルの来日公演にいってきた。
素晴らしかった、美しかった、楽しかった。
このバンドは、ベースやリズムセクションがすごくて、
その安定感のなかで、ジルは思い切り自由にはじけているように見えた。
音楽が一人の人間のなかからわき上がってくるのを目撃する楽しさ。

もしかしたらジルベルト・ジルという人はあまりにその内なる音楽性が豊かすぎて、
アーティストとしての顔が分かりにくく、日本ではそれほどファンが多くないのかもしれない。
レゲエ好きとかボサノヴァ好きとかサンバ好きとか、
悪しき「ジャンル性」に邪魔されてしまっている部分もあるかもしれない。
実際のところ、今回のライブもレゲエでビートルズやったり、イパネマの娘をやったり、
サービス精神旺盛ではあるが下手すると「余興」に見えなくもない部分が結構、多い。

個人的に、ジルベルト・ジルの曲をよく演奏してみるのだが、
それは非常に難しい。私の能力のなさと言ってしまえば身も蓋もないけど、
この難しさと彼の音楽がもつ特異性は、何やら通じるものがある気がする。
実際、ジョアン・ジルベルトやカエターノ・ヴェローゾの「スタイル」を真似てみる日本のミュージシャンはいくらでもいるけど、ジルの物真似は今まであまり目撃したことがない。

ところで、途中、プレゼンターの宮沢和史を迎えて「島唄」を歌うという、それこそ「余興」があった。
ジルがどんな風に歌うか、興味津々だったのだが、宮沢氏のねっとりとした熱唱により、あまりちゃんと聴けなかったのが残念だ。演奏も、よかったのに。
こういう場合、ブラジルの大物ミュージシャンだったら、
「ジル、僕のつくった曲を歌ってくれて、ほんと感激だよ!」みたいな嬉しそうな顔をして、
その演奏を堪能する「フリ」くらいはするだろう。
日本とブラジルの違いなのか、ミュージシャンの格の問題なのか。
(注:私は宮沢和史が嫌いなわけではありません。彼の歌はよくカラオケで歌うし。強いていえば、歌い方が苦手です。)

2008年9月10日

50周年と100周年

今年はボサノヴァ誕生50周年らしい。
ついでに、日系ブラジル移民100周年でもある。
どちらが社会的に重要かといえば、もちろん移民のほうだろう。

というわけで、こんな本を読んでみた。
細川周平『遠きにありてつくるもの--日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』



力作である。
第Ⅰ部では短歌や俳句、川柳といったものから日系人が抱いた祖国への「郷愁」を分析。第二部は、「借用語」「弁論大会」のほか、日本人とブラジルの先住民(ツピ)が同じ祖先をもつというトンデモ説を展開したおじさんの話など、「移民の言葉」がテーマ。第三部はオペラ『蝶々夫人』を歌った「バタフライ歌手」、カーニヴァル、そして浪曲といった芸能について。どれも、この本でしか読めない貴重な資料を紹介しながら、独自の視点で移民史を語っている。
音楽などを通して、ある程度ブラジル文化について関心のある人なら、たとえば「借用語」の用例や、日系人とカルナヴァルの関係は実に興味深いはずだ。もっとも、大戦後の「勝ち組負け組抗争」など、移民史やブラジル文化史について基本的な解説をすっ飛ばしているところもあり(他の本で読めということだろう)、いきなり一冊目として読むには暗黙の前提としている部分が多すぎるような気がしないでもないが。
とにかく、私にとっては非常に面白い話ばかりなのだが、他人に勧めるには興味が個人的すぎるようにも思える。最後の浪曲の部分などは、読みながら、私もこういう「語り物」をいつか作ってみたいという思いを強くした(勝手にしろ!)。
あと、カルナヴァルの項で紹介されていた、日系移民をテーマにしたパレードの映像がyoutubeにあったので、備忘録的にリンクを貼っておこう。
(内容が濃すぎて、とりとめのない紹介になってしまい、すみません)



ついでにもう一冊。
しりあがり寿『人並みといふこと』




しりあがり先生は、私のなかでは同時代を感じつつ、心から尊敬できる数少ないクリエイターのひとりだ。リスペクトの嵐。
気軽に読めるエッセイ集。とはいえ、中身は結構暗い。本人は「スウィート・ネガティブ」とか言ってるが、自分でスウィートとか言ってていいのか(笑)? とも思うが、ご本人も苦笑しながら格闘している感じが素晴らしい。
(尊敬が大きすぎて、とりとめのない紹介になってしまい、すみません)

2008年8月25日

追悼ドリヴァル・カイミ翁

ドリヴァル・カイミ爺さんは、ボサノヴァ・ミュージシャンというわけではないが、
多くの歌がボサノヴァのスタンダードとして歌われている。
「ボサノヴァ日本語化計画」のトップページに変な人形が2体でてくるが、
このうち、ギターをもっているのがカイミ爺さんだ(もう一人は作家ジョルジ・アマード)。

大往生を記念して(?)「Saudade Da Bahia」を訳してみた。
わりとそのまま訳したら、陰気な歌になってしまった。
やっぱポルトガル語で聴いたほうが、いいかなあ。

2008年8月8日

暑くて機材をセットする気力もなく(特にヘッドフォンがきつい)、
いい加減な録音をいくつか。

Eu Vim Da Bahia(俺のバイーア)

白と黒の肖像画

2008年7月31日

ひさびさに新訳

「私とそよ風」を訳してみた。
演奏も録音もへなへな。カラスの声まで入ってる。
夏なので、お許しを。

ジョニー・アルフっていうと、よくボサノヴァの誕生と絡めて語られたりする人でもある。
今年はボサノヴァ50周年てことになってるけど、
それ以前から活動していたこの人が「教祖」だと言われてみたり。
そのへんのことは正直言ってよく分からないが、この曲は結構好きだ。
ジョアン・ジルベルトもやってたっけ、と思って改めて聴いてみたが、
案の定、すごいことになっている。
私のはごくシンプル。

2008年7月16日

そっとナイト



今週から、毎週月曜日のイベント「そっとナイト」がはじまった。 最初ということもあり、たくさんの人が集まり、大盛況だった。


「どこがそっとなんだ」、というツッコミもあり(笑)。
恐らく、これから回を重ねるごとに、より「そっと感」を増していくのではないかと思う。
気が向いたら、ぜひ遊びにきてください。
美味しいビールとおつまみ、ごく簡単なPAを用意してお待ちしております。

理想を言うなら、比較的親密な、でも開かれた場所であってほしいと思う。
また、演奏する人よりも「聴く人」が音楽を育ててくれるような場所であってほしいとも。
そして、いつか「ヴィオロンはある? ちょっと歌わせてくれよ」と見知らぬ若者が戸口に現れ、新しい時代の音楽の目撃者になることができればと妄想している(大袈裟)。

とはいえ、とりあえずは愉快な楽しい会です。
↓は、「アヒル」を歌いながら、踊る子どもが気になって仕方ない私。

2008年7月15日

ライブ3つ

先月から今月にかけて続けてライブが3つもあった。
私にしては珍しいことである。

まず、6/20幡ヶ谷のバーセンノーミにて、folha de lembrancaのお二人と対バン。
しっとりと「ジョビンの暗い歌」などを聴かせてくれる。
ここはまた、ライブ後の「飛び入り」ですごい人が出てきたりするので面白い。
今回はアベさんという女性がとても素敵な弾き語りを披露してくれた。

6/28は代官山アクビにてスティールパン他の川島イタルくんとのデュオ。
たまにやるこの組み合わせもだいぶこなれてきて、「三月の水」なんかは結構独自色が出てきたんじゃないかと思う。

去年もやったここのイベントは、とても素敵な雰囲気。
店長さんの人徳だろう。感謝。

7/7は青山月見ル君想フでイベント。
このような大きなライブハウスでやるのは、まったく初めてなので緊張した。
Moon Is Mineを歌ったときに、背景に月面の写真が大きく投影されたらしい。
歌っていた私は、気づかなかった。
菩薩ノバンドがかっこよかった。面白かった。必見です。

2008年6月15日

陰気な読書週間

このあいだ一冊の本を読み通せなかった話を書いた。
なんだか訳者である木村榮一センセイに申し訳ない気がして、同氏訳のフリオ・リャマサーレス『黄色い雨』を読み始めた。
センセイとは別に知り合いというほどでもないが、一度だけお会いしたことがあり、なんとなく一方的に尊敬している。
村人たちが次々と去り、廃村と化した村に一人残った男が死んでいくまでを描いた小説。
ひたすら陰気な話ではあるが、これは最後まで一気に読んだ。
その暗さとは関係なく、ひさびさに読書の快楽というものを感じた。
文章が美しく、そしてどこかに自然や人間の生活に対する愛情のようなものがあるからだと思う。



続いて、よせばいいのに今度はニューヨークの地下で暮らすホームレスを描いた『モグラびと』。
ニューヨークの治安がひどかった頃の話だから、今はどうなのか分からない。
私はこの頃ニューヨークへ行き、地下鉄は確かに怖かった。
その後、7年くらい前に行ったら、地下鉄もずいぶん変わっていて驚いた。
モグラびとはどうなったのか、気になるところだ。
もっとも印象的なのは、地下にグラフィティの大作を描いていたアーティストたちのエピソード。
そして、地下にコミュニティやファミリーみたいなものがあって、
人間はそこでも食べ物ではなく、他人からもたらされる「尊厳」を糧に生きているという事実だ。



アメリカほど貧富の差が激しくない日本で、自殺者が多いことを考えた。
ときに自殺にまで至る危険な病としてのうつ病について語った新書があったので読んでみた。
臨床医の立場で書いた、その症例や治療の考え方は大いに参考になったが、最後に日本の高い自殺率や社会の状況との因果関係について述べた部分は印象論に終始しているようにも思え、やや検証が物足りない気がした。
これは他の専門家が書くべき部分なのかもしれないが。



そして最後に、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』。
だいぶ前に出た本なのでいまさらという感じはあるが、とにかく面白い、素晴らしい。
まあ、これも話は陰鬱だし、キリシタン弾圧なんて、現代日本社会の暗部にそのままつながっているとも言えるだろう。
それでも、ここには私の愛するものや恐れるものがすべて描かれているといってもそれほど誇張ではないし(まあちょっと誇張だけど)、
とにかく今は亡き著者に最大限のリスペクトを表明したい。

ちなみに、「らくだ節」はまさにこの時代の日本を想像してつくった私なりのフィクションだが、
若桑さんの本を読んだ後に聴くと、なんとショボいことか……。
いや、読まなくてもショボいんだけど(笑)。

2008年6月7日

ジェムレ

最近、暇なのでよくテレビを見ている。
スポーツやニュースも見るが、特になごみ系のドキュメンタリーが多い。
しかし、あまりにもぼんやり観ているので、観たそばからすぐに忘れてしまうようだ。
昨日、友人と話していて、すごく感動した番組があったのを思い出したので、メモしておこう。
「世界ふれあい街歩き」のトルコ・サフランボルの回。
ジェムレが三回降ってくると春が訪れるというので、ジェムレって何だろうと街の人々に聞いてみると、バラバラの答えがかえってきて訳がわからない、という素敵な話だ。
この番組のアバウトなつくり方は、非常に面白い。
毎回、このように面白くはならないのだが、たまに奇跡的なことが起こるから見逃せない。

そんなわけで、私も毎回奇跡的なことが起きないかと願いつつ、懲りもせずにアバウトな録音をしているわけだが、もちろん、そんなことはめったに起きない。


サウダージがサンバを作った
ずっと訳そうと思っていたのだが、意外に難しくてできかなかった。
恋人と別れて歌だけが残った。その「所有権」を主張している、というのが私の解釈だ。
しかし、本当にそうなのか、ちょっと自信がない。

あなたは愛を知らない
これも別れた女への嘆き節。

ヴォセ・エ・リンダ
カエターノ・ヴェローゾの代表曲。
ボサノヴァとは言い難いが、私にとってはとても思い出深い曲。
ようやく録音できた。

2008年5月29日

ゴリラの鼻歌

全体に不調である。
お店の経営状態も苦しいので、私はレイオフ状態になっている。週末など忙しいとき以外は「自宅待機」しているのである。
そんなわけで時間もあるし、本業をばりばりやるとか、音楽活動をがんがんやるとか、すればいいのだが、なんとなくだらだら暮らしてしまっている。
優雅に本でも読もうと思って一冊買ってきたのだが、これがいけない。エンリーケ・ビラ=マタス『バートルビーと仲間たち』。「書けない症候群に陥った作家たち」についてのお話。まあ、これだけで不調なときに読むべき本じゃないということは、分かりそうなものだけど……。昔読んでいたら、きっと面白いと思ったのだろうとは思う。でも、今はだめ。半分くらい読んだところで、全然進まない。



そんなわけで、ぼんやりテレビを眺めていると、NHKの番組でゴリラの鼻歌を紹介していた。テレビ番組も、たまには素晴らしいものを映して(聴かせて)くれるもんだと思ったが、それにしてもなんとも地味な鼻歌である……。

だいぶ前に、『歌うネアンデルタール人』という本を読んだのだが、これが面白かった。
人間が言語以前にもっていたコミュニケーションのあり方について語ったもので、著者はこれを「全体的、多様式的、操作的、音楽的、ミメシス的な」といった意味で「Hmmmmm」と呼んでいる。歌は「音楽」と「言葉」に分解できるが、かつては一体のものとして分けることができないものだったのだろう。
で、私は決して聴くことのできないネアンデルタール人の「歌みたいなもの」を、これまでなんとなく力強い、攻撃的なものと想像していた。
でも、ゴリラの鼻歌を聴いて、あ、こんな感じだったのかも、と考えなおした次第。まあ、実際のところはゴリラとネアンデルタール人では骨格も違うだろうし、もちろん分からない。
河童の鼻歌の言い伝えとか、セイレーンの歌声とか、そういう「聴くことのできない音楽」には妙に心惹かれるものだ。『バートルビーと仲間たち』を思わず買ったのも、きっと「書かれなかったテキスト」というものに惹かれたからだろう。
でも、今の私にはゴリラの鼻歌くらいのほうがピンとくる。

2008年5月16日

lobo bobo

なんだか文字通り調子外れの日々が続いている。

前からやろうと思っていた「ロボ・ボボ」を訳してみた。
歌詞は特に好きじゃないのだが、こういう客観性とか冗談みたいなものは、
今のJ-POPでは、ほとんど見られなくなっているように思う。
たぶん、受け手が真面目にとってしまうからかもしれない。

他にも何曲か、ひさびさに録音してみた。
6月の後半から7月前半に3つほどライブの予定があるので、
そのときにでも配ろうかと思っている。

2008年4月29日

ライブ@だあしゑんか

チェコ料理とビール、絵本のお店でボサノヴァ日本語化計画のライブ。
我ながら、わかりにくい。
しかしお陰様で、大入り満員だった。
みなさま、ありがとう。
座れなかった方、また体調の悪くなっちゃった方、ごめんなさい。

このお店のいいところは、なんといっても狭い店内とは不釣り合いにデカい窓である。
まだ明るいうちのライブだったので、ブラインドも全開にして演奏した。
外を歩いている人と結構目があったりするのが面白い。
ひさびさだったので、とにかくたくさんの曲をやってみた。
30曲くらい? もっとかもしれない。

ライブ後はRamuchi 2000GTさんの素晴らしいスキャット、
ケニーさんとミサキさんのユニットによる素敵な演奏もあり、
私は少しずつ、演奏者から店員へと変身していったのであった。


↑イザウラでひっかかる。


↑アンコールの「小舟」

2008年4月19日

チェコのはなし

チェコ料理を出すバーをはじめた、などというと「ブラジルじゃないの?」と聞かれたりする。
「なんでチェコなんだ」と怒ったような顔で言う人も。
(私がブラジル音楽バーでも開けば、話は分かりやすいのだろう。
だが、それはあまり想像したくない事態ではある……。)
というわけで、私は大抵「相棒である共同経営者がチェコ好きなので」、と答えることにしている(実際、それは正しい)。
とはいえ、私もそれなりにチェコという国への思い入れがあるので、こっそりここに書いてみよう。

といっても、話は実に単純だ。
私はかつて文学青年だった(今でもちょっと文学おじさんだ)。
そして、フランツ・カフカが私のアイドルだった。
以上、終わり。

そんなわけで、私は大学生時代にカフカのいた街、プラハへと旅立った。
まだ、かの国に入るのにビザが必用だった頃の話である。
今回、店を開いてから、
ふとガイドブックとしてそのとき持っていった本が手元にないことに気づいた。
私はよく、大切な本を捨ててしまったり売ってしまったりするのだ。
(店に置くのによい本だろうと思ったので、ヤフオクで買いなおした。)



当時の私はこの本を片手にカフカの墓参りなんぞしながらプラハの街を歩いていたわけだが、
人間とはいい加減なもので、覚えているのはビールがうまかったこととか、
トイレを探してうろうろしたことくらいであったりする。
ついでに、プラハで泊まった家のお婆さんと一緒にオペラをみにいったことも、よく覚えている。
(中途半端なチェコ語とドイツ語で、ろくに意志疎通のできないまま、そのときは婆さんもお洒落をして、なんかデートのような状態だったのである。)

ほかに、
小岸昭「スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて」「マラーノの系譜」も、
ガイドブックがわりになっていた。
これらの本を通じて、私のなかではチェコもイベリア半島も新大陸も、どこかでつながっているように思えたのだろう。
んでもって、当時から鼻歌はいつもボサノヴァだった。

チェコは出版文化も素晴らしいし、「もぐらくん」をはじめとしたキャラクターも大好きだ。
なんといっても、ビールがうまい(繰り返し、失礼)。
とはいえ、チェコ料理のレストランをやるほどかといえば、これは確かに怪しい。
そんなわけで、「なぜチェコなの?」と問われれば、私はやはり口ごもってしまう。
チェコがどうとかいうより、私は単にお店をつくりたかったのだと思う。
出来てみると、自分でも「なぜチェコなんだろ?」とぼんやり考えていることに気づいたりする。

2008年4月8日

アート

昨日、ふと時間があいた。
ひさびさにCDを買おうと思ったら、財布の紐が完全に切れ、
ものすごい勢いで買ってしまった……。危険である。

あと、アートフェア東京なるイベントに行ってきた。
まったく行くつもりがなかったのだが、時間もあるし、たまにはそういうものを見るのもいいかなと思ったのだ。
現代アートのなんたるかが相変わらずさっぱり分からない私だが、
カミン・ラーチャイプラサートというタイのアーティストの作品を見て、ちょっとほっとした。
仏像をアレンジしたような作品。
まあ日本だと円空仏とかあるし、こういうのはなかなか成立しにくいかもしれない。
でも、これならちょっと家に飾ってもいいかなと思った(高くて買えないが)。
これを見ながらギターを弾いたら、ちょっと楽しいだろう。


作品は、どれも仏教的な警句みたいなのがタイトルになっている。
「我が子は真の喜び。だが人生のあるじではなかろう」
「愛情の細部に注意を払え」
「地球は回れど心は動かず。日の出も日没もない」
「幸せは移ろいやすい」
「鳥に羽があるように、人には友がいる」
などなど。
上のやつは、「アートを作ることばかり考えるのはアートではない」。
確かにそうだろうと思う。
アートフェアは、そんな感じの場所であった。

2008年3月31日

ひさびさ

今年に入って、引越をし、友人と店を開き(だあしゑんか)、ついでに仕事も結構あって忙しかった。
新曲はおろか、新訳も新録もできなかった。
とはいえ、この間にギター演奏に関してはいくつかブレークスルーや発見があり、
自分のなかでは単に休んでいたわけではないのである。
まあ、他人が聴いても、相変わらずじゃん、というくらいの小さなことなんだろうが。

そんなわけで(?)、
夏にかけて何回かライブをやろうと思っている。
手はじめは、自分のお店でこぢんまりと弾き語り。
例によっていいライブになりそうな予感がするので、
お誘い合わせの上、ぜひ遊びにいらしてくださいな。

ボサノヴァ日本語化計画 @四谷三丁目 だあしゑんか
出演:OTT
日時: 2008年4月27日(日曜) start 16:00 (open 15:00)
チャージ 1000円(one drinkつき)
場所: だあしゑんか (東京都新宿区舟町7 田島ビル2F)
◆ひさびさのライブはシンプルに弾き語りのみでやります。小さなお店で美味しいビールと珍しいチェコ料理(ブラジルではない)を楽しみながら、ゆるゆるのひとときをお過ごしくださいませ!

2008年1月17日

アウェイ

先週末はミュージシャンである兄が主宰しているエレクトロニカ系(?)・イベントに出演した。
その名も「ベルリン・カフェ」というこの月一のパーティは、普段、穏やかなマニアたちが最新機器のツマミをいじってニンマリしている、という印象だったのだが、今回は新年拡大版で、まるで東京最先端のクラブイベントみたいなノリになっていた(まあ、大袈裟だが)。
そんななか、へなちょこなボサノヴァの弾き語りを披露することになった私は、完全な「アウェイ」状態であった。
私のライブを盛り上げてくれるいつもの失笑は、もちろんなし。
ろくに演奏を聴いている様子もなく、小さな音はお喋りの渦にかき消えていくのであった(笑)。
ちょっと辛くもあり、気楽にもなった私は、特にどうということもない演奏を終え、次のDJに席を譲ったが、後で聞いてみるとちゃんと演奏を聴いてた人もいて、冷や汗をかいた。
どんな状況でも、手を抜いた演奏をしてはいけないのである。
「アウェイ」の試合は、他にもいろんな意味で「ホーム」の何倍も勉強になった。
たとえば音響面もそのひとつである。
状況に応じた音づくりというのは、やはり演奏者のほうで考えなければならないと思った。
もしかしたら、選曲も間違っていたかもしれない。