2007年5月30日

聴くことができないと思っていたのに



ちょっと前に「ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ」というCDが発売された。
これは、ボサノヴァ先進国(?)日本編集版ならではというか、衝撃的なものであった。
ジョアン・ジルベルト信奉者にとっては、ボサノヴァ以前のジョアンの歌声にまず驚かされただろう。
そして、ジョアン・ジルベルトがカヴァーした数々の曲のオリジナルというか、貴重な音源の数々。
でも本当のことをいうと、聴かないほうがよかったんじゃないか、これって罪なCDなんじゃないか、とも思う。
 
ジョアン・ジルベルトが古いサンバの記憶を独自の手法で追求していることは、知られている。私たちのような「非ブラジル人」にとって、それは過去というより、けっこう未知のものであったりする。
もちろん、その一部は古い音源の再発によって知ることができたし、当時のサンバがもっていた雰囲気やサウンドをまったく知らない、というわけではい。しかし、故郷の拡声器のようなスピーカーから流れるラジオで若き日のジョアン・ジルベルト聴いたという古いサンバがどのようなものであったかを考えるのは、かなり想像力を刺激する作業だった。
 
こうしてあっけなく音源として差し出されてしまうと、これまで必死で探していた「聴くことのできないもの」の答えを見せられてしまったようで、少しつまらない。
いや、これは音源にがっかりした、という意味ではない。
むしろ逆で、実に素晴らしいものが多いのではあるが。
 
ジョアン・ジルベルトだって、必ずしも古いレコードを聴きながら、コピーしているわけではない。記憶のなかにある美しいものを実際に見たら、聴いたら、ちょっと違うと感じることは珍しくないだろう。
そんなわけで、これほど素晴らしいCDを聴いて、これほど悲しい気持ちになったのは、はじめての経験である。

2007年5月28日

ライブ@アクビ

珍しくライブが続いている。
土曜日は代官山のアクビにて川島イタルさんとのライブ、
今週末にも吉祥寺で同じユニットで出演することになっている。
それが終わったら、しばらくおとなしくしていようと思う。

私には似合わぬお洒落なお店での演奏。
お客もちょっと東横線沿線風(?)の知らない方が多く、緊張するかと思ったが、妙にいい感じで入った。
不思議なもんである。
川島さん(写真右)とのユニットも前回よりだいぶよくなった気がする。
スティールパンの音が心地よい。

2007年5月23日

裏ボッサ大会

先週、下谷のチェスさんにて「第一回裏ボッサ大会」が執り行われた。
参加者は私と「宇宙語ボッサの巨匠」ことRAMUCHI2000GTさん、その他数人。
本人たちの意気込みのわりには、慎ましい大会である。

しかし、このライブ、意外によかったんじゃないかと私は疑っている(?)。
RAMUCHI2000GTさんの男気溢れるボッサは、格好良くて、可笑しい。
裏の裏たる所以は、どうもポルトガル語がどーだとか、そんな細かいことではないようにも思えてきた。
一体それは何なのかと問われれば、一言でいうのは難しい。
一度大会を見にきてください。

2007年5月16日

歌詞はおまけ?

詩というものに少し興味をもちはじめた頃、欧米のポピュラー音楽をよく聴くようになった。
でも、この2つはちっとも結びつかなかった。
もちろん、好きな歌を歌ってみたいという欲求はあり、仕方なく英語の歌詞を覚えたりはした。
でも、正直いって歌詞の内容はどうでもよいと思っていた。
日本のポップスをあまり聴かなかったこともあるかもしれない。
歌はサウンドの一部で、なんとなく響きがよければ十分だと思っていたのだ。
面白いことに、日本のアーティストではほとんど例外的に聴いていた矢野顕子が、歌詞の内容は重要ではなく、音楽がよければいいと思っている、という趣旨の発言をしているのを読んだことがある。

そして、その後は考えを変えたのかというと、実はあまり変わっていない。
私は基本的に、歌詞はそれほど重要じゃないと思っている。
歌詞なんかに頼らず、音楽を音楽として存在させることのできるミュージシャンを尊敬する。
じゃあなぜ今みたいなこと(歌詞中心に見える活動)をやっているかといえば、端的にそれしかできないからだ。

もっとも、母語である日本語の歌詞を聴いた場合、それが音楽を邪魔することは多くある。
一体、何を馬鹿なこと言ってるんだ? と思ったり、
かっこつけてんな~、と思ったり、
どこかの企業の宣伝文句みたいだなあ、と思ったり、
むしろ「音楽を邪魔しない」と感じる歌詞のほうが少ないとすらいえるかもしれない。
そういうレベルでは、やっぱり矢野顕子の歌詞は結構好きだ。

でも、本当のことをいうと、こういう意識では、いい音楽はつくれても、
「いい歌」はできないんじゃないだろうか。
言葉と音楽がどうしても切り離せないところで生まれた歌。
なんとなくはじめてしまったこの「日本語化」という作業のなかで、
期せずして私はその領域に触れてしまい、少し戸惑っているところだ。

2007年5月8日

情けなさ

情けない歌詞が好き、などというと誤解されることがある。
いわゆる「暗い歌詞」が好きなのだろう、と勘違いされるのだ。
「情けなさ」というのは、一体どいういうものだろうか?

池内紀というドイツ文学者・作家がこんなことを言っていた。
「ギャンブルが好きな人は、負けた後のあの情けない感じが好きで、ついやっちゃうんだよね」

つまり、「情けない」というのは一種の反省であり、相対化である。
悲しみとか苦しみとか怒りとか、そういうネガティブな感情を、そのまま表現するのではない。
「情けなさ」にかぎらず、こうした相対化によってもたらされるのは、
やはりユーモアだろうと思う。
大笑いするようなギャグではなく、そこはかとなく可笑しい、ユーモア。
だから、「情けなさ」はネガティブをポジティブに変換する一種の通路なのだ。

小さいもの、弱いもの、ダメなもの、美しくないもの……。
そういったものをたとえば「可愛い」と表現することができる。
それによって人々は、一般にネガティブな要素もポジティブに変換しているわけだ。
私にとって、「情けなさ」は「可愛さ」と似ているかもしれない。

2007年5月3日

益子陶器市

昨年に引き続き、 4月29日、30日と益子陶器市に行ってきた。

場所は、益子でも有名なモーホ(?)、かまぐれの丘。若い作家が集まり、テントを出している。陶器市全体は人混みがすごく、たぶん観光客としていったらただ疲れ果てるだけだが、ここにいる分にはのんびり休日を満喫できる。

今回は大学時代の友人であるWADAくんにベースで参加してもらった。

前回のライブで初めて合わせたのだが、なかなかいい感じだ。
特にこういう屋外では、ベースが入ったほうが安心感がある気がする。






↓一年ぶりにいったら、子どもが「豆事情」の歌詞をほぼ覚えていた。
親に私のCDを聴かされまくっているらしい。
気の毒というよりほかない……。


他にもいくつか期間限定で動画を公開してます。
クオリティは恐ろしく低いですが、お暇な方はどうぞ~。