2010年10月31日

ホジーニャ、あるいは薔薇

新しい訳です。ジョアン・ジルベルトがアルバム「ジョアン」で歌っている「ホジーニャ」という曲。
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/rosinha.mp3
ホジーニャというのは薔薇という女性の名前なので、そのままでもよいのだが、「ほら、ホジーニャ……」では少し芸がない気がした。

Rosinha ホジーニャ
薔薇よ私の心よ 君が好きさ 結婚しよう 一緒に住もう
君がかけた この魔法を解いて 苦しめないでくれ
ほら、私の心は君のものさ 結婚しよう 一緒に住もう
君がかけた この魔法を解いて 苦しめないでくれ
過ち 愚かに 繰り返さない だから薔薇よ
今すぐ決めよう 小さくキスして もう待ちきれないよ

2010年10月27日

メタファー、あるいは言葉の力



先日、ブラジル映画祭というのがあって、『Palavra Encantada 魔法じかけの言葉』という作品を見てきた。ブラジル音楽を聴いていると、仮にポルトガル語が分からなくても、豊穣な詩の世界が広がっていることが「なんとなく」感じられる。なんでそんなことになってるのか、いろいろな角度から迫った面白い作品だ。
ジルベルト・ジル「メタフォラ(暗喩)」は、そのエンディングに使われていた曲。
http://ott.sakura.ne.jp/ottnet/songs/metafora.mp3

あれこれ論じてみてはものの、結局、音楽というか歌ひとつのほうが雄弁であったという話ではある。
でも、言葉と音楽(歌)の関係についてかなり深いところに迫っていたような気がする。
私の訳は、かなり元の歌から離れている。隠喩と直喩の違いを歌に入れたりすると大変なので、「たとえ」という言葉の範囲におさめてしまったのだ。
でも、教育テレビ的でもあり、ちょっと気に入っている。

♪メタフォラ
たとえば言葉が心を 入れる箱なら また
たくさんの愛を 送るだろう
「喩え」は私の知らない 場所へと続く 穴
たくさんの音を 響かせる

心に秘めた思い超えた 詩人の言葉が重なれば
まるであたかもちょうどそれは
ぴったりすぎるほど
入らない そこから 思い溢れ

きわめてありふれたものが
鮮やかに形変える
喩えるのさ もっとたくさん
言葉の力は メタフォラ

能動的な技術と受動的な技術(なぜか写真論)



前にもどこかで書いたことがあるような気はするけど、写真を撮るのが下手だ。
幸い最近はデジカメ全盛の時代なので、そのことが瞬間的に分かるが、昔は現像するまでの時間がかなりあって、いつも非常に大きな失望を感じていたものである。

先日、アラーキー(荒木経惟)のインタビューをテレビで見ていたら、もう最近は撮る写真撮る写真イケてる、みたいなことを言っていた。見ていると、もう考える時間なんかなく、構えて撮る、構えて撮るという感じなのに、撮れた写真はどれもある意味、奇跡的なところがある。私はこういう写真の不思議さというか魅力に憧れていて、だからこそ自分が撮った写真を見るといつも絶望してしまうのである。

ところで知人の写真家に宮島さんという人がいて、私はとても尊敬している。
この人とは、一緒に数日間かけて伊勢まで路線バスに乗って旅行するとか、庭をテーマに庭じゃない場所で写真を撮るとか、そういう訳の分からない仕事をさせていただいてきた。
それにしても、写真の不思議さは、カメラマンが作品を撮る現場のなかにあると言っても嘘ではない。写真の美しさとか面白さ自体、わりと言葉で説明できたり、頭で理解できたりする類のものであることが少なくない。それなのに、それを撮っているカメラマンの動きは、けっこう不可解なのだ。
仕事柄、カメラマンの動きは結構見てきたが、根本的なところで、どうも自分にはできないと感じることが多かった。一体、それは何なのか?

そんなことをあれこれ考えているうちに、アーティストには大きく分けて2つの技術と才能があると思うようになった。
能動性のなかにある技術(才能)と受動性のなかにある技術(才能)。
何かを意図してつくる表現という行為は、能動性のなかに、その本質を見いだすことが多いだろう。だが、実際のアーティストという人種は驚くほど受動的な人々である。
そして、向こうからやってくるものを、研ぎ澄まされた感覚とスピードと的確な反応でもっていかに受け入れるか……、それは簡単に真似できるものではなかったりする。私のような頭でっかちの能動バカには、とりわけ難しい課題なのだ。
たぶん、2つの技術は両方あってはじめてバランスを見出すようなものなのだろう。ただ、写真というのはとりわけこの受動性(の技術)が大切な気がする。

そんなわけで、宮島氏のウェブサイト製作を手伝えたのは、実に素敵な体験だった。
http://www.geocities.jp/dwxmj960/
タイトルは最終的に「Bath Birthday」となった。
実はこれ、私の間違いから生まれたタイトルでもある。本来は「Bath Birth」となるはずだった。宮島氏から「間違いですがこのほうが面白いので、これでいきます」と言われ、私は慌てた。
このエピソードのなかに、受動的な技術の神髄があるとは、もちろん言えない。
音楽においても、受動的な技術が重要なのは言うまでもないが、正直いって私にはそのことを語る自信がまったくない……。

2010年10月6日

最近のCDらいふ

なんだか激しくCDを買ったり借りたりしてるわりには、音楽生活はあまりぱっとしない。
音楽を聴くより、演奏するほうが楽しいというのがあるのだけど、どこか寂しい感じだ。

●メキシコの古いボレロを集めたコンピをきっかけに、メキシコの古い音源をたくさん買っている。
それにしても、「ボレロ」で検索するとろくなものが出てこないし、メキシコのポピュラー音楽についての情報があまりに少ないことにちょっと驚いている。
ブラジル並にとは言わないけど、もう少し注目されてもいい気がする。


●周囲でまた赤ん坊がつぎつぎに生まれている。
出産祝いにお勧めのCD。


●小泉文夫監修ワールドミュージック全集のコピーは100枚中90枚ほど終了。

●ブラジル関係ではなんといってもジルベルト・ジルの「Bandadois」
DVDで見るとジルのギターと歌は本当に神業です。


●あとは、アブドゥーラ・イブラヒムの作品などなど。

2010年10月5日

京都で何をおもう

ひさしぶりに京都へ行ってきた。
京都には住んだこともないのだが、小さな縁がいくつもあって、もう十何回か訪ねていると思う。
東京に住んでいる人にはよく京都に対する妙な憧れがあり、私もそれを共有している気がする。鴨川沿いに出るたび、説明のできない感動がある。
今回は楽しみにしていたアブドゥーラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)の上賀茂神社でのライブにあわせ、京都ではなく岐阜あたりをぶらぶらしてこようか、などと思っていた。
しかし、先週はちょっとしたハプニングがあり、それは不可能になった。そして、すでに書いたように週末は自分もイベントの予定があった。
そんなわけで、滞在時間24時間にも満たない弾丸ツアーとなってしまった。
新幹線は高い。せっかく行くならもっとのんびりした旅を楽しみたいものである。

以下は旅のメモ。
出町柳 ファラフェル・ガーデン http://www.falafelgarden.com/ (日本ファラフェル界の聖地)
下鴨神社 たぶん昔兄がこの辺に暮らしていた。
茶寮 宝泉 http://www.housendo.com/shopinfo.html わらび餅がうまい。しかし、こういうところに行くと京都って大変だなと感じる。
深泥池  有名な心霊スポットらしい。
上賀茂神社
スペインバル http://www.jampack-kyoto.com/ (京都在住の知り合いが教えてくださった。マンチェゴ・チーズがとてもおいしい。)
というわけで、飲んだり食べたりばかり……。

さて、最後になってしまったが、アブドゥーラ・イブラヒムのライブ。
私は最近になってこの人の名作「アフリカン・ピアノ」を初めて聴いたくらいなので、あまり多くを知らない。
昔のとんがった音源にくらべると、かなり雰囲気はまるくなっており、スピリチャルな感じさえある。
外からは虫の鳴き声が聞こえるなかで、ピアノの音はどう聞こえるかなと思ったが、まあピアノはピアノだなと思った。
音楽にはいろいろな種類があって、私はどちからというと「真善美」でいうところの真や美を追いかけて聞いてきたかもしれない。でも、彼の音楽は圧倒的に善な感じがして、少し恥ずかしい気持ちになった(笑)。
前に座っていた女性の頬には涙が光っていた。
そのとき私は、スペイン・バルでワインを飲むかビールを飲むか、などとぼんやり考えていた。

2010年10月4日

過剰な過剰さのはなし


奏@国立のジョアン・ジルベルトトリビュートなライブにて。
右は尊敬するギタリストの「よなごん」こと代永光男氏、真中はお馴染柳家小春師匠。


他人の自己分析とか自己省察とか、読んでもつまらないかと思いますがどうかお許しを。

私は「過剰さ」というものが大の苦手だが、自分のなかにもどこか「過剰さ」があり、また「過剰さ」を引き寄せてしまうようなところがあるように思う(要するに、困った人間ということだ)。
というのも、昨日は国立の奏さんというお店で素敵なイベントに出させていただいたのだが、自分としてはもう少し軽く、すっとやめておけばよかった……と後悔したわけ。
出演者が多く、みなさん非常に内容の濃い演奏だったので、全体によいライブではあるんだけど、大変ヘビーで胃にもたれるものになってしまったのではないかと心配しているのである。
その点、柳家小春師匠なんかはちゃんとバランスを心得ていらっしゃる。
昨日の場合は、次に登場して流れをつくった私が全面的に悪かたったのだ(笑)。
とはいえ、こういうぎゅうっと詰めこんだものが嫌いかというと、そうでもないようにも思え、自分でも実に訳がわからない。
そうだとすれば、わざとやっているということになる。
他人がうんざりするようなことを、私はいつもやってるなあ、とか反省しながら次の悪事を企んでいるようで非常に始末が悪い。
そういうわけで、過剰さのついでというか、大量の動画をアップしちゃおう……。

マダムとの喧嘩は何のため?


トローリー・ソング


三月の水


Eu Sambo Mesmo


弾語りもかっこいい杉山茂生さん、そしていつもながら素晴らしい小春師匠との「カエル」