2007年4月27日

ポエジーと情けなさ

私はわりと昔から文章を書くのが好きだったが、最初に詩を書いたのがいつかは覚えていない。
たぶん、ふつうに学校で先生に書かされたのだろう。
そして、恐らくものすごくつまらないものだったに違いないと思う。
というのは、当時の私はわりと「優等生」であり、先生が喜ぶようなツボを知っていたからだ。
ポジティブであり、子どもらしく(胡散臭い言葉だ)、素直であり(これも)、明るいもの。
実際に、先生はそういう詩ばかりを褒め称えた。

あるとき、私はそういうものが詩ではないことを突然感じた。
6年生のときだ。私はちょっとした反抗期を迎えていた。
クラスメイトが書いた詩を、先生が批評していた。
「悪い詩」としてやり玉に挙げられていたのが、サカちゃんの書いた詩だ。
彼は私と同じように、大変痩せている。
そして彼は自分の育てた植物が、なぜか自分に似てひ弱なことを、詩で指摘していた。
先生はたぶん、植物がひ弱なのは「似ているから」ではなく、単に世話の仕方が悪いのだと捉えているようだった(その通りである可能性は、高い)。
そのため、このやや無責任な感じのするサカちゃんの詩に怒りをぶつけていたのだった。
しかし、私には「自分の育てた植物が自分に似る」というこの不思議な現象のなかにこそ、詩があるのだと感じられた。
先生への反感もあって、私はそのような趣旨のことを発言した。
この詩が一番いい、自分はそういう詩を書いたことがない。

私にとって「ポエジー」の原点は、ここにある。
したがってそれは、どこかで「情けなさ」と結びついたものだ。
花といえばポジティブなものという、J-POPの歌詞は、だから全然ピンとこないのだ。

2007年4月25日

お土産

GWに益子の陶器市で演奏させてもらうので、そのときにもっていくお土産としてCD-Rを製作した。
本当はいくつか新しい録音も入れたかったのだが、どうもうまくできず、最近一年間にHPで公開した音源だけで構成することにした。
益子にはダウンロードできないからCDくれ、などという方もいるから、それなりに意味はあるのだ。
とはいえ、前に2回つくった歌詞カード付きのCD-Rとちがって、ジャケットもないいい加減なものである。

1. トロリーソング
2. ベサメ・ムーチョ
3. おうちにはかえらない
4. 蛙
5. あなたと私
6. 四葉
7. バナナの木
8. レオンジーニョ
9. Moon Is Mine
10. マシュケナダ
11. 三月の水(ライブ録音)
12. らくだ節

かなりいい加減に順番を決めたが、全体を通して聴くとけっこういい(自画自賛炸裂)。
興味のある人はしばらくライブの折などにもっていき配りますので、お声をおかけください。

2007年4月23日

悲しき裏ボッサ

さて、ここまで何やら長々と書いてきたのは、「裏ボッサ」とは何かを説明するためだった。
乱暴に要約すると、裏ボッサとは、ボサノヴァという伝統芸能のなかにある一種の異端である。
自分はあくまでもボサノヴァをやっていると主張しつつ、何やら怪しげな音楽を奏でる人々である。

などと書きながらも、すでに「裏ボッサ」というジャンルが成立するかどうかは、かなりどうでもよくなっている。
とりあえず、まずは人知れず活動している2人のミュージシャンを紹介したい。
私がこんなことを書き出したのも、最近この人たちの存在を知ったからだ。

まず、菩薩ノバ
名前の通り、お坊さんである。怪しさではとにかく群を抜いている。
そして、たぶん実力も。

もうひとつ、4畳半BOSSA NOVA というサイトをやっているramuchi2000GTという人。
名前の意味は今のところ不明だ。
この方とは5月に一緒にライブをやらせていただくことになっている。
光栄というほかない。

僭越ながら、私のやっていることも加えさせていただくことにしよう。
3人の共通点は、 ポルトガル語というボサノヴァのたぶん最重要構成要素を無視しているところだ。
にもかかわらず、あくまでもボサノヴァであると言い張る。
たぶん、ポルトガル語でうまく歌えなかっただけなんじゃないかと思うが(少なくとも私はそうだ)、
その挫折をポジティブに(?)乗り越え、あるいは無視し、とにかくボサノヴァを続ける。
このほかにも、実は何人か「裏ボッサ」的な存在を確認しているが、とりあえず例としては十分だろう。

他に、ギターというやはり重要な構成要素を無視した人もいるかもしれない。
海外ではあるが、バンジョーでボッサという人もいる。
たぶん、他にもいろんな楽器が考えられるだろう。
ピアノなどではなく、ショボい楽器であればあるほど、裏感は強まる。
しかし、楽器の違いによって「裏ボッサ」と呼ぶのはどうも的を射た感じがしない。

そんなわけで(?)、「裏ボッサ」情報がありましたら、ぜひお知らせください。

2007年4月18日

表ボッサ、裏ボッサ

古典芸能などというが、お前のやってることは、めちゃくちゃじゃないか。
そう言われれば、もっともである。
そもそも、私には「師匠」がいないし、ボサノヴァどころか、ギターも習ったことがないのだ。
おまけに、先駆者にはかなり失礼ともいえる改変を行っている。
しかし私が言いたいのは、もう少し基本的な「心構え」についてだ。

そのことを語る前に、前回触れた小野リサ以外にも、 日本にはたくさんのボサノヴァ弾き、ボサノヴァ歌いがいることは指摘すべきだろう。
しかし、彼女の他は、CDやライブだけで生活できる人はほとんどいないだろう。
彼らの多くは、弟子をとることで、生計を立てていると思われる。
こうして、お稽古ごとが大好きな人の多い日本の「ボサノヴァ道」は、どんどん古典芸能化しているわけだ。
もちろん、いわゆる古典芸能にくらべれば、縛りはゆるい。
師匠の教えだけを頑なに守っているような人は、決して多くないだろう。
それでも、舶来の音楽をいち早く修得し、それを多くの人々に教えた彼らの功績というか、影響は小さくないものと思われるのである。

ここで私は冗談まじりに、このお稽古的なボサノヴァの主流を「表ボッサ」と呼びたい。
基本的に表ボッサは多数派であり、保守的である。
一方、もう少し異端的な人々がいる。私はもちろん「裏ボッサ」である。

重要なのは、2つの違いよりも、むしろ共通点かもしれない。
それは「ボサノヴァ」という言葉に対するこだわりというか、未練というか、執着心だ。
たとえば、どれほどボサノヴァに影響を受けようとも、たとえばSaigenjiのような人は、それを乗り越えてしまっている。
それは、ブラジルでカエターノ・ヴェローゾをはじめ、先述のパウリーニョ・モスカなどなど、多くのミュージシャンがボサノヴァからの多大な影響を消化し、新しいジャンルへ進んでいったのと同じ。
私たちは面倒なので、この人たちのやってることを全部ひっくるめて「ポップス」と呼んだりする。

表ボッサと裏ボッサの共通点は、「ポップス」という茫漠たるジャンルに乗り込むことができず、消えてしまったボサノヴァにこだわり続けていることだろう。
こういう人々が大量にいる、というのが日本のボサノヴァ・シーンの不思議なところだ。

2007年4月16日

古典芸能としてのボッサ

すでに多くの人がご存知のことと思うが、今のブラジルに、これがボサノヴァと呼べるようなものは、ほとんどない。
私がブラジルへ遊びにいった1999年頃はもちろんのこと、それより遙か昔にボサノヴァは終わってしまったといわれている。
だから、私も別にボサノヴァに期待してブラジルへ行ったわけではなかった。毎日ライブばかり見にいったが、それはサンバやMPB(ブラジルのポップス)、ショーロ、あるいはレゲエ、バイーアのアシェー、フォホーなどなど。さまざまな音楽がブラジルを彩っていて、飽きることはなかった。
Marcos Valleのライブにもいってみたが、たぶん彼もあれがボサノヴァだとは思ってないはずだ(フュージョンのような印象を受けた)。
なかでも私が一番ボッサを感じたのは、パウリーニョ・モスカの弾き語りだったろうか。もちろん、一般的にあれをボサノヴァと呼ぶのは間違いだろうけれども、彼のなかにボッサが消化されていることは確かだと思う。
ジャンル自体が消えてしまったとしても、さまざまな音楽のなかにボサノヴァは生きている。

というのが、私のごくいい加減なブラジルにおけるボサノヴァ状況の総括。
問題は、日本である。なぜか日本ではボサノヴァが活況を呈している。
しかもそれは、消えてしまったボサノヴァに限りなく近いスタイルで行われている。ボサノヴァが好きな人が多いとか、影響を受けたミュージシャンが多い、というレベルではない。
いってみれば、それは古典芸能として、生き続けようとしているのである。

小野リサという素晴らしいアーティストがいて、彼女は「日本ボッサ界の最高峰」に位置するだろう。というより、商業的な成功だけでなく、仕事のヴァラエティや量、そしてクオリティにおいても、ボサノヴァ・シンガーとして、たぶん世界一じゃないだろうか。
もっとも、ボサノヴァというジャンルが死んでしまった今、その意味は昔と違うのだけれども。古典芸能というのは、商業的に成功するようなものではない。
だから、小野リサはやや例外的である。クラシック・バレエや歌舞伎のスターみたいなものだろうか。

ついでにいえば、「ジョアン・ジルベルトが生きているじゃないか」などという話も、例外。
幸いにも「創始者」がまだ生きていて、おまけにものすごいクオリティの演奏活動を行っているわけだが、ここでの話にはあまり関係ない。
日本における古典芸能としてのボサノヴァ関係者は、ほぼ例外なくこの人物を尊敬し、下手をすると神と崇めるほどである。この辺がまた古典芸能ぽいところだ。
活気のある音楽ジャンルというのは、古いものを乗り越えるパワーのほうが、古いものへのリスペクトよりも目立つものだ。
だから私は、自分のやっていることも含め、これは一種の古典芸能だと思っているわけだ。

2007年4月14日

タイトルなど

ふと思いついてブログをつくってみた。
いくつか、書きたいことがあるのだが、他にちょうどいい場所がないからだ。
実は、すでにブログは何度かやってみたのだが、割とすぐ挫折してしまった。
飽きっぽいのだ。サイトの数がやたらに多いのも同じ理由だろう。
したがって、これもいつか放置される可能性が高い。
でもまあ、ぼちぼち書いていこうと思う。

タイトルのポルトガル語は文法的に正しいのかどうか、よく分からない。
でも、このブログのタイトルとしては、ぴったりだと思う。