2007年4月16日

古典芸能としてのボッサ

すでに多くの人がご存知のことと思うが、今のブラジルに、これがボサノヴァと呼べるようなものは、ほとんどない。
私がブラジルへ遊びにいった1999年頃はもちろんのこと、それより遙か昔にボサノヴァは終わってしまったといわれている。
だから、私も別にボサノヴァに期待してブラジルへ行ったわけではなかった。毎日ライブばかり見にいったが、それはサンバやMPB(ブラジルのポップス)、ショーロ、あるいはレゲエ、バイーアのアシェー、フォホーなどなど。さまざまな音楽がブラジルを彩っていて、飽きることはなかった。
Marcos Valleのライブにもいってみたが、たぶん彼もあれがボサノヴァだとは思ってないはずだ(フュージョンのような印象を受けた)。
なかでも私が一番ボッサを感じたのは、パウリーニョ・モスカの弾き語りだったろうか。もちろん、一般的にあれをボサノヴァと呼ぶのは間違いだろうけれども、彼のなかにボッサが消化されていることは確かだと思う。
ジャンル自体が消えてしまったとしても、さまざまな音楽のなかにボサノヴァは生きている。

というのが、私のごくいい加減なブラジルにおけるボサノヴァ状況の総括。
問題は、日本である。なぜか日本ではボサノヴァが活況を呈している。
しかもそれは、消えてしまったボサノヴァに限りなく近いスタイルで行われている。ボサノヴァが好きな人が多いとか、影響を受けたミュージシャンが多い、というレベルではない。
いってみれば、それは古典芸能として、生き続けようとしているのである。

小野リサという素晴らしいアーティストがいて、彼女は「日本ボッサ界の最高峰」に位置するだろう。というより、商業的な成功だけでなく、仕事のヴァラエティや量、そしてクオリティにおいても、ボサノヴァ・シンガーとして、たぶん世界一じゃないだろうか。
もっとも、ボサノヴァというジャンルが死んでしまった今、その意味は昔と違うのだけれども。古典芸能というのは、商業的に成功するようなものではない。
だから、小野リサはやや例外的である。クラシック・バレエや歌舞伎のスターみたいなものだろうか。

ついでにいえば、「ジョアン・ジルベルトが生きているじゃないか」などという話も、例外。
幸いにも「創始者」がまだ生きていて、おまけにものすごいクオリティの演奏活動を行っているわけだが、ここでの話にはあまり関係ない。
日本における古典芸能としてのボサノヴァ関係者は、ほぼ例外なくこの人物を尊敬し、下手をすると神と崇めるほどである。この辺がまた古典芸能ぽいところだ。
活気のある音楽ジャンルというのは、古いものを乗り越えるパワーのほうが、古いものへのリスペクトよりも目立つものだ。
だから私は、自分のやっていることも含め、これは一種の古典芸能だと思っているわけだ。

0 件のコメント: