古典芸能などというが、お前のやってることは、めちゃくちゃじゃないか。
そう言われれば、もっともである。
そもそも、私には「師匠」がいないし、ボサノヴァどころか、ギターも習ったことがないのだ。
おまけに、先駆者にはかなり失礼ともいえる改変を行っている。
しかし私が言いたいのは、もう少し基本的な「心構え」についてだ。
そのことを語る前に、前回触れた小野リサ以外にも、 日本にはたくさんのボサノヴァ弾き、ボサノヴァ歌いがいることは指摘すべきだろう。
しかし、彼女の他は、CDやライブだけで生活できる人はほとんどいないだろう。
彼らの多くは、弟子をとることで、生計を立てていると思われる。
こうして、お稽古ごとが大好きな人の多い日本の「ボサノヴァ道」は、どんどん古典芸能化しているわけだ。
もちろん、いわゆる古典芸能にくらべれば、縛りはゆるい。
師匠の教えだけを頑なに守っているような人は、決して多くないだろう。
それでも、舶来の音楽をいち早く修得し、それを多くの人々に教えた彼らの功績というか、影響は小さくないものと思われるのである。
ここで私は冗談まじりに、このお稽古的なボサノヴァの主流を「表ボッサ」と呼びたい。
基本的に表ボッサは多数派であり、保守的である。
一方、もう少し異端的な人々がいる。私はもちろん「裏ボッサ」である。
重要なのは、2つの違いよりも、むしろ共通点かもしれない。
それは「ボサノヴァ」という言葉に対するこだわりというか、未練というか、執着心だ。
たとえば、どれほどボサノヴァに影響を受けようとも、たとえばSaigenjiのような人は、それを乗り越えてしまっている。
それは、ブラジルでカエターノ・ヴェローゾをはじめ、先述のパウリーニョ・モスカなどなど、多くのミュージシャンがボサノヴァからの多大な影響を消化し、新しいジャンルへ進んでいったのと同じ。
私たちは面倒なので、この人たちのやってることを全部ひっくるめて「ポップス」と呼んだりする。
表ボッサと裏ボッサの共通点は、「ポップス」という茫漠たるジャンルに乗り込むことができず、消えてしまったボサノヴァにこだわり続けていることだろう。
こういう人々が大量にいる、というのが日本のボサノヴァ・シーンの不思議なところだ。
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