Feitico Da Vila(ヴィラの魔法)
ノエル・ホーザがリオデジャネイロのエスコーラ・ヂ・サンバ、ヴィラ・イザベルを称えた歌。
オリジナルとジョアン・ジルベルトのヴァージョンを聴き比べると面白い。
私のはゆるゆる。
Fotografia(フォトグラフィア)
名曲だと思うが、私にはどうもあまり合わない感じがする。
フォトグラフィア、というニュアンスがいまいち理解できていない。
元の詞にはフォトグラフィアという言葉は出てこなかった気がする。
Preconceito(偏見)
白い金持ち女に恋した、暑い地方出身の黒くて貧しい男の歌。
こういう歌が可能なところが、ブラジルの面白さという気もする。
彼女のほうは周囲に「あいつは黒すぎる」とか言ってるらしいが、
サンバにおける「黒(moreno)」はブラジルらしさでもあるわけだから。
Louco(ばか)
知人のリクエストにより訳してみた。
原詞「vagabundo」のところが「ばかもん」になってるのがポイント。
はい、くだらないです、すみません。
2007年11月10日
choppとcerveja
ジョアン・ジルベルトが出演するビールの宣伝が面白いので、日本語化してみた。
CMソングは独特の寸詰まり感があって、結構好きだ。
ところでブラジルにはビールを呼ぶのにchoppとcervejaの2種類の言葉があるが、前者がいわゆる「樽生ビール」、後者が瓶や缶のビールと思っていた。
この歌にも2種類がでてくる。
前者は商品名、後者は普通名詞として。
で、これは映像にも見える通り樽生の宣伝ではないので、どうやら日本と同じく、ブラジルでも「生」という言葉の使い方には少し混乱があるようだ(もしかしたら、まったく同じ状況にあるのかもしれない)。
そんなことを考えながら「なまで」を繰り返してみたのだが、この部分、すごく気に入っている。
CMソングは独特の寸詰まり感があって、結構好きだ。
ところでブラジルにはビールを呼ぶのにchoppとcervejaの2種類の言葉があるが、前者がいわゆる「樽生ビール」、後者が瓶や缶のビールと思っていた。
この歌にも2種類がでてくる。
前者は商品名、後者は普通名詞として。
で、これは映像にも見える通り樽生の宣伝ではないので、どうやら日本と同じく、ブラジルでも「生」という言葉の使い方には少し混乱があるようだ(もしかしたら、まったく同じ状況にあるのかもしれない)。
そんなことを考えながら「なまで」を繰り返してみたのだが、この部分、すごく気に入っている。
越境の時
鈴木道彦『越境の時 一九六〇年代と在日』
ひさびさに会った友人が勧めるので、読んでみた。
すごかった。今年の新書ナンバーワンだな。
内田樹『私家版・ユダヤ文化論』
も、
福岡伸一『生物と無生物のあいだ 』
も、
斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』
も、
この本の迫力にはちょっとかなわない気がする。
著者にこの本を書くように説得したという上野千鶴子にも、感謝すべきだろう。
内容については、とても解説できる自信がない。
なので騙されたと思って読んでみてください。
ひさびさに会った友人が勧めるので、読んでみた。
すごかった。今年の新書ナンバーワンだな。
内田樹『私家版・ユダヤ文化論』
福岡伸一『生物と無生物のあいだ 』
斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』
この本の迫力にはちょっとかなわない気がする。
著者にこの本を書くように説得したという上野千鶴子にも、感謝すべきだろう。
内容については、とても解説できる自信がない。
なので騙されたと思って読んでみてください。
2007年11月7日
ソル・フアナ
ソル・フアナ『知への賛歌』(光文社古典新訳文庫)
文庫名なんて書かなくてもいいと思うんだけど、尊敬をこめて。
ロダーリ『猫とともに去りぬ』
でこの文庫シリーズに注目し、『カラマーゾフの兄弟』
が売れてると聞き、スゴイと唸った。
でも、さすがに、これが出るとは思わなかった。
弱小出版社でもいいから、訳はあまりよくなくていいから(旦敬介訳はもちろん素晴らしかった)、とにかくソル・フアナの詩集が読んでみたかった。
だから、感謝してもしきれないんだけど、本当はできれば詩の割合をもう少し増やしてほしかった……。
バロック的で私の理解が及ばないんだということは想像できるが、ここで訳された多分比較的分かりやすい作品から想像するに、この数倍分かりにくい作品だとしても、結構イケるんじゃないか。
まあしかし、詩集というだけで売れないらしいし、あまり贅沢は言えない。
実際問題、彼女の詩のよさをここで説明するのはちょっと難しい。
私が「ボサノヴァ日本語化計画」でやっていることにも通じるが、そこには私の誤読が大いに含まれていると感じるから。
だから、この日本では無名の作家を取り上げるのに、書簡2つを選んだというのは、それなりに正しい選択なのだろう。
女性なのに、修道女なのに、詩なんか書きやがって。
そういう時代の話。彼女はこれらの書簡で自己弁護を試みる。
それがなんとも言えず面白くて、機知に富んでて、軽やかで、深みもあって、そして時代を先んじていた。
それはまあ、そうだろう。
「私だけの部屋」をもてなかった彼女は、作家であり続けるために修道院に入った。
でも今を生きる男の端くれとして感じるのは、女性は今もこんな感じでキツい状況にいるよなあ、それに比べて男はテキトーなことを、不用意な差別発言を、軽率な自慢を、垂れ流しているよなあ、というようなことだ。
そんなわけで(どんなわけで?)、光文社文庫からは今後も目が離せない。
文庫名なんて書かなくてもいいと思うんだけど、尊敬をこめて。
ロダーリ『猫とともに去りぬ』
でも、さすがに、これが出るとは思わなかった。
弱小出版社でもいいから、訳はあまりよくなくていいから(旦敬介訳はもちろん素晴らしかった)、とにかくソル・フアナの詩集が読んでみたかった。
だから、感謝してもしきれないんだけど、本当はできれば詩の割合をもう少し増やしてほしかった……。
バロック的で私の理解が及ばないんだということは想像できるが、ここで訳された多分比較的分かりやすい作品から想像するに、この数倍分かりにくい作品だとしても、結構イケるんじゃないか。
まあしかし、詩集というだけで売れないらしいし、あまり贅沢は言えない。
実際問題、彼女の詩のよさをここで説明するのはちょっと難しい。
私が「ボサノヴァ日本語化計画」でやっていることにも通じるが、そこには私の誤読が大いに含まれていると感じるから。
だから、この日本では無名の作家を取り上げるのに、書簡2つを選んだというのは、それなりに正しい選択なのだろう。
女性なのに、修道女なのに、詩なんか書きやがって。
そういう時代の話。彼女はこれらの書簡で自己弁護を試みる。
それがなんとも言えず面白くて、機知に富んでて、軽やかで、深みもあって、そして時代を先んじていた。
それはまあ、そうだろう。
「私だけの部屋」をもてなかった彼女は、作家であり続けるために修道院に入った。
でも今を生きる男の端くれとして感じるのは、女性は今もこんな感じでキツい状況にいるよなあ、それに比べて男はテキトーなことを、不用意な差別発言を、軽率な自慢を、垂れ流しているよなあ、というようなことだ。
そんなわけで(どんなわけで?)、光文社文庫からは今後も目が離せない。
2007年10月29日
イベント終了
「バナナとワニ」、謎のままに無事終了した。
懸念していた通り、お客さんは少なかったが、ある意味では自分の理想とするイベントになったようにも思う。
プロらしさというか、商品価値は限りなくゼロに近いんだけど、楽しいライブ。
でもそれって、人によっては失礼に感じたりもするだろう。
そんなこともあって、これを機に少しライブを減らし、練習や録音に軸足をずらそうかなとも思っている。
楽しいからついやりたくなっちゃうんだけど。
今回にかぎらず、私のような者のライブに足を運んでくれる方々、そして演奏させてくださるお店の方々、改めてお礼申し上げます。ありがとう!
↑は友人にゲストで歌ってもらった「童神」。
ろくに練習せずにやったので、歌い出しがちょっと不安な感じだけど、最後まで聴いてみてください。
素晴らしいヴォーカリストだと私は思っています。
懸念していた通り、お客さんは少なかったが、ある意味では自分の理想とするイベントになったようにも思う。
プロらしさというか、商品価値は限りなくゼロに近いんだけど、楽しいライブ。
でもそれって、人によっては失礼に感じたりもするだろう。
そんなこともあって、これを機に少しライブを減らし、練習や録音に軸足をずらそうかなとも思っている。
楽しいからついやりたくなっちゃうんだけど。
今回にかぎらず、私のような者のライブに足を運んでくれる方々、そして演奏させてくださるお店の方々、改めてお礼申し上げます。ありがとう!
↑は友人にゲストで歌ってもらった「童神」。
ろくに練習せずにやったので、歌い出しがちょっと不安な感じだけど、最後まで聴いてみてください。
素晴らしいヴォーカリストだと私は思っています。
2007年10月23日
バナナとワニ
OTT:バナナとワニの物語、聞かせてくれよ、ねえGyuちゃん
Mao:はすとばら、飾りをつけて、楽しい飲み会にしましょう
Gyu:(重々しい声で)この店のイベントは、条件が厳しいぞ
OTT:waki兄も呼びますよ、とりあえずいつものイパネマ、歌います
(以下、イパネマの娘を歌う)
という訳で、ひさびさに自分で企画したイベントだ。
我ながら、訳が分からない。
無理に説明しようとすると、キーワードは「偽南国感」ということになるのだろうか。
本物じゃないブラジル、どこか観光風の南国情緒。
あまりに人が来なさそうなので、知人にメールを出したりして宣伝している。
しかし、最近どうも頻繁にライブをやって飽きられているのをひしひしと感じる。
飽きる以前に、もういいよって感じだろう。
それは分かる。
でも、いいライブになるんじゃないかという、密かな予感があるのだ。
ぜひ、来てください。
バナナとワニ @渋谷 はすとばら
出演:WAKI, OTT (装飾協力:Mao)
日時: 2007年10月28日(日曜) start 15:30(~17:30)
1500円(ワンドリンク付)
場所: はすとばら (渋谷区道玄坂1-16-8常磐ビル2F 地図)
Mao:はすとばら、飾りをつけて、楽しい飲み会にしましょう
Gyu:(重々しい声で)この店のイベントは、条件が厳しいぞ
OTT:waki兄も呼びますよ、とりあえずいつものイパネマ、歌います
(以下、イパネマの娘を歌う)
という訳で、ひさびさに自分で企画したイベントだ。
我ながら、訳が分からない。
無理に説明しようとすると、キーワードは「偽南国感」ということになるのだろうか。
本物じゃないブラジル、どこか観光風の南国情緒。
あまりに人が来なさそうなので、知人にメールを出したりして宣伝している。
しかし、最近どうも頻繁にライブをやって飽きられているのをひしひしと感じる。
飽きる以前に、もういいよって感じだろう。
それは分かる。
でも、いいライブになるんじゃないかという、密かな予感があるのだ。
ぜひ、来てください。
バナナとワニ @渋谷 はすとばら
出演:WAKI, OTT (装飾協力:Mao)
日時: 2007年10月28日(日曜) start 15:30(~17:30)
1500円(ワンドリンク付)
場所: はすとばら (渋谷区道玄坂1-16-8常磐ビル2F 地図)
2007年10月1日
2007年9月4日
くるくる
先日、『メヴレヴィー教団のセマーの儀式 日本公演』を見に行った。
日本では旋舞教団なんて言われている、くるくる廻る、アレである。
↓こんな感じ。
なんというか、「芸能として」、すごく洗練された舞台であった。
しかし、私は予備知識がないので、いろいろ分からないことだらけである。
そもそも今年はルーミー生誕800年(!)だとかいう話なのだが、
私はなんとなくこの人、ペルシャの詩人・思想家というイメージをもっていた。
でも歌はやっぱりトルコ語だったんだろうか。
やたらに民族や宗教の違いを超えた博愛主義みたいなことを強調してたから、たぶん、何語かなんて重要じゃないんだろう。
でも、近代国家の政策として教団自体は禁止されたともいうし、それが今トルコ政府の観光キャンペーンと一体になってるんだから、その辺の事情はなんか複雑である。
子どもの頃くるくるまわったことを、観客はみんな思い出してたに違いない。
だが、そういう共有できる体験や文化の普遍性みたいなのを超えて、ヘンな世界であることも事実だ。
神がかり状態を目指す舞踊は世界にたくさんあれど、くるくる廻るという直接的な方法を取り入れ、
かつこれだけの完成度があるというのは、スゴイことのように思える。
日本では旋舞教団なんて言われている、くるくる廻る、アレである。
↓こんな感じ。
なんというか、「芸能として」、すごく洗練された舞台であった。
しかし、私は予備知識がないので、いろいろ分からないことだらけである。
そもそも今年はルーミー生誕800年(!)だとかいう話なのだが、
私はなんとなくこの人、ペルシャの詩人・思想家というイメージをもっていた。
でも歌はやっぱりトルコ語だったんだろうか。
やたらに民族や宗教の違いを超えた博愛主義みたいなことを強調してたから、たぶん、何語かなんて重要じゃないんだろう。
でも、近代国家の政策として教団自体は禁止されたともいうし、それが今トルコ政府の観光キャンペーンと一体になってるんだから、その辺の事情はなんか複雑である。
子どもの頃くるくるまわったことを、観客はみんな思い出してたに違いない。
だが、そういう共有できる体験や文化の普遍性みたいなのを超えて、ヘンな世界であることも事実だ。
神がかり状態を目指す舞踊は世界にたくさんあれど、くるくる廻るという直接的な方法を取り入れ、
かつこれだけの完成度があるというのは、スゴイことのように思える。
2007年8月14日
荘子
加島祥造氏については、ずいぶん前にこんな文章を書いた。
もう最後にお会いしてずいぶん時間が経つ。伊那谷のお宅に伺ってお前はインタビューの仕方がダメだと言われ、その後気持ちよさそうに庭で小便をしておられたのを思い出すと涙が出そうになる。
いい加減な仕事ばかりしてきた私にとって、加島さんは直接に影響を受けた数少ない作家、心から師と呼びたい数少ない人物だ。まあ、ご本人はこんな私に師匠などといわれれても嫌がられるだけであろうが。
老子の名訳に続く『荘子 ヒア・ナウ』がついに出たので読んでみた。
意外というか、どこかで聞いたことのあるような話が多かったが(荘子を読み通したことはないのに)、期待通り加島節が炸裂してて面白かった。
そしてご本人の「解説」もすごくいい。
ユーモアと思想の関係を明快に語っている。
素晴らしい仕事だ。
もう最後にお会いしてずいぶん時間が経つ。伊那谷のお宅に伺ってお前はインタビューの仕方がダメだと言われ、その後気持ちよさそうに庭で小便をしておられたのを思い出すと涙が出そうになる。
いい加減な仕事ばかりしてきた私にとって、加島さんは直接に影響を受けた数少ない作家、心から師と呼びたい数少ない人物だ。まあ、ご本人はこんな私に師匠などといわれれても嫌がられるだけであろうが。
老子の名訳に続く『荘子 ヒア・ナウ』がついに出たので読んでみた。
意外というか、どこかで聞いたことのあるような話が多かったが(荘子を読み通したことはないのに)、期待通り加島節が炸裂してて面白かった。
そしてご本人の「解説」もすごくいい。
ユーモアと思想の関係を明快に語っている。
素晴らしい仕事だ。
ポルトガル語
ときどき、ポルトガル語がスラスラだと誤解されることがあるのだが、実は半年しか習ったことがない。それも、ブラジル人ではなくポルトガル人から。週一回、きわめて怪しいポルトガル語歴である。
スペイン語を少し習っていたので、またブラジル音楽が好きだったので、その先生は私が発音をすると露骨に嫌そうな顔をした。スペイン語風、かつブラジル訛りというのが、許せなかったようだ。対照的に、フランス語風に発音する女の子などには、極めて嬉しそうな顔をしていたように思う。
ポルトガル語の歴史はそれほど古くないが、大航海時代にいきなり「国際語」になって、そして速やかに衰退した。
『海の見える言葉 ポルトガル語の世界』は、ポルトガルから西アフリカ、大西洋、ブラジル。また東アフリカからゴア、東ティモール、マカオなど、世界中に辛うじて残った「ポルトガル語圏」と言葉について語る。
クレオールをはじめ、現地での経験をまじえた具体的な著述はとても面白いが、少し舌足らずな印象もある。
日本もまた、わずかな語彙を残すのみだが、かつてポルトガル語圏と接した歴史がある。
また、今、ブラジルからの移民によって、有数の「ポルトガル語話者の多い国」になった。
感慨深いといえば、感慨深い。
私は「ボタン」「ジュバン」「金平糖」など、日本語のなかに残るポルトガル語起源の言葉だけを使って歌でもつくれないかと一瞬考えたが、今のところうまくいってない。
スペイン語を少し習っていたので、またブラジル音楽が好きだったので、その先生は私が発音をすると露骨に嫌そうな顔をした。スペイン語風、かつブラジル訛りというのが、許せなかったようだ。対照的に、フランス語風に発音する女の子などには、極めて嬉しそうな顔をしていたように思う。
ポルトガル語の歴史はそれほど古くないが、大航海時代にいきなり「国際語」になって、そして速やかに衰退した。
『海の見える言葉 ポルトガル語の世界』は、ポルトガルから西アフリカ、大西洋、ブラジル。また東アフリカからゴア、東ティモール、マカオなど、世界中に辛うじて残った「ポルトガル語圏」と言葉について語る。
クレオールをはじめ、現地での経験をまじえた具体的な著述はとても面白いが、少し舌足らずな印象もある。
日本もまた、わずかな語彙を残すのみだが、かつてポルトガル語圏と接した歴史がある。
また、今、ブラジルからの移民によって、有数の「ポルトガル語話者の多い国」になった。
感慨深いといえば、感慨深い。
私は「ボタン」「ジュバン」「金平糖」など、日本語のなかに残るポルトガル語起源の言葉だけを使って歌でもつくれないかと一瞬考えたが、今のところうまくいってない。
2007年8月6日
ライブ@美容院
小山の美容院でライブをさせていただいた。
最初は宇都宮でやる予定だったものだった祝美容院開店イベントだが、結局お店でやることになったというお話。
でも、これがとてもいいスペースで、ライブハウスよりいいんじゃない? というくらい。
お客さんの雰囲気もアットホームでよかった。
かっこいいGypsy Vagabonzさんと私のだらけた音楽の組み合わせも悪くないんじゃないか、と思った。
呼んでいただいたみなさま、遊びに来ていただいたみなさま、ありがとう!
ところでライブ開始前に近くを歩いたのだが、けっこうブラジル人が多いようだった。
道沿いに、お祭りの提灯みたいのをぶら下げた変な家があって、
そこではビニール製のプールに入った子どもとそれを見守る親が実にまったりとした時間を過ごしていた。
そして、帰りに車から覗いたら、夜はそこでお酒を飲んでいるのだった。うーん、素晴らしい家だ……(すごくぼろいんだけど)。
ああいうところに住んで、ギターでも弾きながら暮らしたい。
最初は宇都宮でやる予定だったものだった祝美容院開店イベントだが、結局お店でやることになったというお話。
でも、これがとてもいいスペースで、ライブハウスよりいいんじゃない? というくらい。
お客さんの雰囲気もアットホームでよかった。
かっこいいGypsy Vagabonzさんと私のだらけた音楽の組み合わせも悪くないんじゃないか、と思った。
呼んでいただいたみなさま、遊びに来ていただいたみなさま、ありがとう!
ところでライブ開始前に近くを歩いたのだが、けっこうブラジル人が多いようだった。
道沿いに、お祭りの提灯みたいのをぶら下げた変な家があって、
そこではビニール製のプールに入った子どもとそれを見守る親が実にまったりとした時間を過ごしていた。
そして、帰りに車から覗いたら、夜はそこでお酒を飲んでいるのだった。うーん、素晴らしい家だ……(すごくぼろいんだけど)。
ああいうところに住んで、ギターでも弾きながら暮らしたい。
2007年8月3日
ディス・イズ・ボサノヴァ
「ディス・イズ・ボサノヴァ」という映画が公開されるらしい。
「名曲に乗せて明かされるボサノヴァ誕生秘話」だそうで、これに合わせてホベルト・メネスカルやカルロス・リラも来日しているらしい。
塩・太陽・南、そして愛・微笑み・花、それがボサノヴァと言われれば、私も黙るしかない(笑)。
ついでにというか、私も映画館併設のカフェで少し演奏させてもらうことになった。別に主催者から声がかかったわけではなく、募集中と書いてあったから応募したら、特に審査もなくOKになったのである。ありがたいというか、やや心配である。
私のはたぶんどちらかというと「イズ・ディス・ボサノヴァ?」になりそうで恐い。
日時: 2007年8月19日(日曜) start 16:00
チャージなどはないようです。映画を見るなら、ぜひこの日にどうぞ。
グレイソン・ペリー
出張先の金沢で素晴らしい展覧会を見た。
我が文明:グレイソン・ペリー展
ヘンリー・ダーガーの強い影響を受けているらしいが、アウトサイダー・アートの文脈とはちょっと違う気もした。
とにかく、作品がモノとして美しく、可愛く、かつ笑えて、同時に先鋭的でしかも思慮深い感じがする。
美術展に行ってこれほど嬉しかったのは久しぶりだ。
あと同じ美術館のもうひとつの展覧会では、ソフィ・カルの「ヴェネツィア組曲」などがあった。
こちらは21世紀美術館のこだわりなのか、キャプションというか説明が英語だったので、見てもちゃんと読んで理解する人は少ないんじゃないかと思う。少し残念な気もする。
(この作品は『本当の話』として翻訳もされているので美術館で見るより本で読んだほうがいいのかもしれない)
私自身はこのとき、ちょうどポール・オースターの『Travels in the Scriptorium』を読みはじめたところだったので、オースター風のちょっとした偶然を感じた。
2007年7月24日
低調な日々の充実した読書記録
わりと低調な日々である。
風邪もひいたし、音楽もなんかピンとこない。
でも、そういうときこそ読書生活が充実してたりするものだ。
ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 誰がカラヤンを帝王にしたのか』
クラシックの指揮者というのが何となく胡散臭いなあと昔から思っていた。
これを読んで謎が解決されたというわけではないが、面白い部分もあった。
しかし長すぎる。翻訳も読みにくい。
福岡正信『自然に還る』
この人の本ははじめて読んだ。冒頭の写真にインパクトがある。
爺リーグにノミネートできるだろう。
中身も、言いたい放題で面白い。
欲が出て(?)松茸の培養に挑戦したあたりが個人的にもっとも笑えた。
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
話題の書。海岸の砂でできた城の喩えが美しい。
ちょっと名文を気取りすぎな気も少し。でも、もっと読みたい。
マオバ・タハン『アラビア数学奇譚』
ブラジルの数学者が書いたという不思議な本。
アラビア数学の本というより、数学を小道具に使ったアラビアン・ナイト風の物語という感じ。
杉本良男『インド映画への招待状』
分かりやすくまとめてもらって有り難いが、これを読んでも特に「この映画見たい!」とならないのは、まあそういう性格の本じゃないということか。
風邪もひいたし、音楽もなんかピンとこない。
でも、そういうときこそ読書生活が充実してたりするものだ。
ノーマン・レブレヒト『巨匠神話 誰がカラヤンを帝王にしたのか』
クラシックの指揮者というのが何となく胡散臭いなあと昔から思っていた。
これを読んで謎が解決されたというわけではないが、面白い部分もあった。
しかし長すぎる。翻訳も読みにくい。
福岡正信『自然に還る』
この人の本ははじめて読んだ。冒頭の写真にインパクトがある。
爺リーグにノミネートできるだろう。
中身も、言いたい放題で面白い。
欲が出て(?)松茸の培養に挑戦したあたりが個人的にもっとも笑えた。
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』
話題の書。海岸の砂でできた城の喩えが美しい。
ちょっと名文を気取りすぎな気も少し。でも、もっと読みたい。
マオバ・タハン『アラビア数学奇譚』
ブラジルの数学者が書いたという不思議な本。
アラビア数学の本というより、数学を小道具に使ったアラビアン・ナイト風の物語という感じ。
杉本良男『インド映画への招待状』
分かりやすくまとめてもらって有り難いが、これを読んでも特に「この映画見たい!」とならないのは、まあそういう性格の本じゃないということか。
2007年7月20日
極悪人としての小説家
藤原章生『ガルシア=マルケスに葬られた女』
ガルシア=マルケスについては、前にこんな文章を書いた。
面白い物語をつくるためなら何でもする、そんないわばモラルを欠いた作家が、現実の事件を元にした小説を書き(『予告された殺人の記録』)、モデルたちを苦しめた。
日本では割と最近、柳美里の本が出版差し止めになった記憶があるけど、そんな感じだろう。
著者の怒りや疑問も、それなりにもっともである。
でも、まだ見ぬ被害者の女性への手紙という何やら思い入れたっぷりの形式には、最後まで馴染めなかった。
どう考えても「真っ赤な嘘」であるのに、もっともらしく書くことで、現実よりも本当らしい物語をつくる。
これが、ガルシア=マルケスの一番面白い部分だと思う。
だから著者が指摘するように、フィクションの名を借りた現実の歪曲や、ノンフィクション執筆時のでっちあげといった悪事と、深い関係がある。
その部分を、もっと鋭くえぐってほしかった。
ガルシア=マルケスがついた「真っ赤な嘘」のなかで、
『予告された殺人の記録』で女性が手紙を書き続けたエピソードは、それほど上手な嘘ではなかったように思う。
ついでに、『わが悲しき娼婦たちの思い出』が悲しき失敗作であるという見解にも同意せざるをえない。
ガルシア=マルケスについては、前にこんな文章を書いた。
面白い物語をつくるためなら何でもする、そんないわばモラルを欠いた作家が、現実の事件を元にした小説を書き(『予告された殺人の記録』)、モデルたちを苦しめた。
日本では割と最近、柳美里の本が出版差し止めになった記憶があるけど、そんな感じだろう。
著者の怒りや疑問も、それなりにもっともである。
でも、まだ見ぬ被害者の女性への手紙という何やら思い入れたっぷりの形式には、最後まで馴染めなかった。
どう考えても「真っ赤な嘘」であるのに、もっともらしく書くことで、現実よりも本当らしい物語をつくる。
これが、ガルシア=マルケスの一番面白い部分だと思う。
だから著者が指摘するように、フィクションの名を借りた現実の歪曲や、ノンフィクション執筆時のでっちあげといった悪事と、深い関係がある。
その部分を、もっと鋭くえぐってほしかった。
ガルシア=マルケスがついた「真っ赤な嘘」のなかで、
『予告された殺人の記録』で女性が手紙を書き続けたエピソードは、それほど上手な嘘ではなかったように思う。
ついでに、『わが悲しき娼婦たちの思い出』が悲しき失敗作であるという見解にも同意せざるをえない。
2007年7月18日
2007年7月11日
2007年7月9日
屋根の上のぽえ鳥
下記イベントは11月に延期となりました。
改めて告知させていただきます。
ご迷惑おかけして申し訳ございません。(7/27)
来週末はポエトリーリーディングのイベントに出ることになっている。
ポエトリーリーディングとは、 単なる詩の朗読なのか、違うのか、
私は行ったことがないから分からないが、
甘いものも出るらしいから、
きっと幸せな会に違いない。
「Poetry On The Roof」
7/15 (Sun) 17:00~ (16:30開場)
場所:三軒茶屋 レインオンザルーフ
太陽のひかり。波のしぶき。星のまたたき。夏の日のきらきら。ボサノバユニットうさぎちゃんをゲストにお迎えします。ゆったりとお家感覚のリーディングをお楽しみください。スウィーツでのおもてなしも致します。
テーマ: きらきら
■出演者 ■ Poetry reading 小枝真実子、藤田梨絵、古川久美子 and more ...
■ Guest うさぎちゃん 日本語ボサノヴァのマエストロ、OTT(あっと)と、不思議系パーカッショニスト、ITT(いっと)によるボサノヴァユニット
改めて告知させていただきます。
ご迷惑おかけして申し訳ございません。(7/27)
来週末はポエトリーリーディングのイベントに出ることになっている。
ポエトリーリーディングとは、 単なる詩の朗読なのか、違うのか、
私は行ったことがないから分からないが、
甘いものも出るらしいから、
きっと幸せな会に違いない。
「Poetry On The Roof」
7/15 (Sun) 17:00~ (16:30開場)
場所:三軒茶屋 レインオンザルーフ
太陽のひかり。波のしぶき。星のまたたき。夏の日のきらきら。ボサノバユニットうさぎちゃんをゲストにお迎えします。ゆったりとお家感覚のリーディングをお楽しみください。スウィーツでのおもてなしも致します。
テーマ: きらきら
■出演者 ■ Poetry reading 小枝真実子、藤田梨絵、古川久美子 and more ...
■ Guest うさぎちゃん 日本語ボサノヴァのマエストロ、OTT(あっと)と、不思議系パーカッショニスト、ITT(いっと)によるボサノヴァユニット
2007年6月30日
2007年6月22日
2007年6月20日
ノンフィクションの文体
対象は違うが、過去のある事件にこだわり、取材と時代的な考察を行ったという点で、この2冊は似ているのかもしれない。
なんとなく湿った感じのする文体に、(自分にとっての)同時代感のようなものを意識させられ、気持ち悪かった。
どちらも、それなりに面白いのだが、著者の個人的な思い入れの強さが、どうも邪魔に感じられた。
別に主観的な書き方が悪いというのではない。
テーマが重いというのなら、余計に、からっとした文章にしたほうがよいのではないかと思うのだ。
悲しい歌を悲しそうに歌う、というスタイルが、あまり好きじゃないのと似ているかも。
なんとなく湿った感じのする文体に、(自分にとっての)同時代感のようなものを意識させられ、気持ち悪かった。
どちらも、それなりに面白いのだが、著者の個人的な思い入れの強さが、どうも邪魔に感じられた。
別に主観的な書き方が悪いというのではない。
テーマが重いというのなら、余計に、からっとした文章にしたほうがよいのではないかと思うのだ。
悲しい歌を悲しそうに歌う、というスタイルが、あまり好きじゃないのと似ているかも。
本選び
ときどき、書店に行くと絶望的な気持ちになる。
何か面白い本はないかと思って探しにいくのだが、とにかく数が多すぎて、だんだん、どうでもいいような気分になってくるわけだ。
そこで、こういう優れた読書家の書評を頼りにしてみる。
ちょっと前の本が多いので、いい具合に文庫化されている本も多く、ありがたい。
出版社別に並んだ文庫から面白そうなのを探すのは、一般書を探すよりもさらに気が遠くなるからだ。
ところで、本屋にないものをamazonで調べてみると、
私と同じように米原さんの本を頼りに読書している人がけっこういるようで面白い。
一見関係のなさそうな本が、「類書」として紹介されているのだ。
何か面白い本はないかと思って探しにいくのだが、とにかく数が多すぎて、だんだん、どうでもいいような気分になってくるわけだ。
そこで、こういう優れた読書家の書評を頼りにしてみる。
ちょっと前の本が多いので、いい具合に文庫化されている本も多く、ありがたい。
出版社別に並んだ文庫から面白そうなのを探すのは、一般書を探すよりもさらに気が遠くなるからだ。
ところで、本屋にないものをamazonで調べてみると、
私と同じように米原さんの本を頼りに読書している人がけっこういるようで面白い。
一見関係のなさそうな本が、「類書」として紹介されているのだ。
2007年6月19日
O Encontro au Bon Gourmet
O Encontro au Bon Gourmet という1962年の録音で、ジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・ヂ・モラエスが3人で「イパネマの娘」を歌っている。
その前に3人が芝居めいた掛け合いをするのが素晴らしいので、それを訳して歌ってみた。
マニアックな世界というかなんというか、自分のやっていることが馬鹿馬鹿しくて笑える。
ジョアン:愛の秘密を教えてくれる、そんな歌をつくってよ、トム
トム:できないよ。ヴィニシウスの歌詞がなければ、ただのメロディー
ヴィニシウス:この歌を歌うのは、この世でジョアン一人
ジョアン:お二人は偉大です。三人で一緒に歌いましょう
(以下、イパネマの娘を三人で歌う)
João Gilberto (in sweet voice):
Tom e se você fizesse agora uma canção
Que possa nos dizer
Contar o que é o amor?
Tom Jobim (in reedy voice):
Olha Joãozinho
Eu não saberia
Sem Vinicius pra fazer a poesia
Vinicius de Moraes (in deep voice):
Para essa canção
Se realizar
Quem dera o João
Para cantaaaaaaaaaaaaaar
[audience laughter]
João:
Ah, mas quem sou eu?
Eu sou mais vocês.
Melhor se nós cantássemos os três.
[more audience laughter and applause]
All three:
Olha que coisa mais linda
mais cheia de graça [...]
参考サイト
http://daniellathompson.com/Texts/Reviews/Bon_Gourmet.htm
その前に3人が芝居めいた掛け合いをするのが素晴らしいので、それを訳して歌ってみた。
マニアックな世界というかなんというか、自分のやっていることが馬鹿馬鹿しくて笑える。
ジョアン:愛の秘密を教えてくれる、そんな歌をつくってよ、トム
トム:できないよ。ヴィニシウスの歌詞がなければ、ただのメロディー
ヴィニシウス:この歌を歌うのは、この世でジョアン一人
ジョアン:お二人は偉大です。三人で一緒に歌いましょう
(以下、イパネマの娘を三人で歌う)
João Gilberto (in sweet voice):
Tom e se você fizesse agora uma canção
Que possa nos dizer
Contar o que é o amor?
Tom Jobim (in reedy voice):
Olha Joãozinho
Eu não saberia
Sem Vinicius pra fazer a poesia
Vinicius de Moraes (in deep voice):
Para essa canção
Se realizar
Quem dera o João
Para cantaaaaaaaaaaaaaar
[audience laughter]
João:
Ah, mas quem sou eu?
Eu sou mais vocês.
Melhor se nós cantássemos os três.
[more audience laughter and applause]
All three:
Olha que coisa mais linda
mais cheia de graça [...]
参考サイト
http://daniellathompson.com/Texts/Reviews/Bon_Gourmet.htm
豆いろいろ
このブログは音楽のことだけ書こうかとも思ったのだが、
そういう線引きは長続きしないという気もするので、どんどん雑多な内容にしていこう。
というわけで、読書記録なんぞも書くことにした。
「裁きの豆」(カラバル豆)についての記述があった。
なんでも、無罪の人がこれを食べて死なないのは、一気にがっと飲み込んだから吐いてしまう、というのが原因らしい。
いや、これは全然この本のポイントではありません。
非常に面白かった。
もう一冊。
これにも豆についての記述が。
菜食が推進されたナチス時代には、大豆が「ナチス豆」と呼ばれてもてはやされたらしい。
いや、これは全然この本のポイントではありません。 非常に面白かった。
ついでに「ナチスが反タバコ運動に熱心だった」という話を読んで、
なんとなくタバコを吸う言い訳になるかも、と思っていたところもあるのだが、
逆にひさしぶりに禁煙をはじめるキッカケになってしまった。
心の動きというのは、不思議なものだ。
そういう線引きは長続きしないという気もするので、どんどん雑多な内容にしていこう。
というわけで、読書記録なんぞも書くことにした。
「裁きの豆」(カラバル豆)についての記述があった。
なんでも、無罪の人がこれを食べて死なないのは、一気にがっと飲み込んだから吐いてしまう、というのが原因らしい。
いや、これは全然この本のポイントではありません。
非常に面白かった。
もう一冊。
これにも豆についての記述が。
菜食が推進されたナチス時代には、大豆が「ナチス豆」と呼ばれてもてはやされたらしい。
いや、これは全然この本のポイントではありません。 非常に面白かった。
ついでに「ナチスが反タバコ運動に熱心だった」という話を読んで、
なんとなくタバコを吸う言い訳になるかも、と思っていたところもあるのだが、
逆にひさしぶりに禁煙をはじめるキッカケになってしまった。
心の動きというのは、不思議なものだ。
2007年6月9日
ポエシーア
先日、吉祥寺のイルカッフェというところでライブをやらせていただいた。
そのとき、一緒に演奏した川島イタル君に「大学では何をしていたのか?」などと質問されて、少しうろたえた。
まあ、特に何もしていなかったのであるが、所属していた学部や学科のことを話すうちに、 詩について書いた恥ずかしい卒論を思い出してしまった。
これはメキシコの詩人について書いたもので、実にいい加減なものである。
今考えるとこれらの詩は正直いって難解でよく分からなかった。
それで適当な理屈をこね、最後にメキシコへ旅行にいったときに見た夢について書いた。
夢オチの卒論で卒業できるなんて、有難い学校である。
夜の屋台で不思議な食べ物を売っていた。
葉っぱに巻かれているのだが、中には蒸した白い美味しそうなものが湯気を立てている。
食べてみたいなあ、と思って、売っているオッサンの呼び声を聞いていると、どうやら、
「ポエシーア、ポエシーア」
と言っているようである。あれ、ポエシーアって何だっけ。
あ、詩(ポエジー)のことじゃないか、と思ったという夢だ。
この食べ物はチマキに似ているが、たぶん実際にはタマレスというトウモロコシの料理だったと思う。
そのときは、まだ名前を知らなかったのだ。
そのとき、一緒に演奏した川島イタル君に「大学では何をしていたのか?」などと質問されて、少しうろたえた。
まあ、特に何もしていなかったのであるが、所属していた学部や学科のことを話すうちに、 詩について書いた恥ずかしい卒論を思い出してしまった。
これはメキシコの詩人について書いたもので、実にいい加減なものである。
今考えるとこれらの詩は正直いって難解でよく分からなかった。
それで適当な理屈をこね、最後にメキシコへ旅行にいったときに見た夢について書いた。
夢オチの卒論で卒業できるなんて、有難い学校である。

葉っぱに巻かれているのだが、中には蒸した白い美味しそうなものが湯気を立てている。
食べてみたいなあ、と思って、売っているオッサンの呼び声を聞いていると、どうやら、
「ポエシーア、ポエシーア」
と言っているようである。あれ、ポエシーアって何だっけ。
あ、詩(ポエジー)のことじゃないか、と思ったという夢だ。
この食べ物はチマキに似ているが、たぶん実際にはタマレスというトウモロコシの料理だったと思う。
そのときは、まだ名前を知らなかったのだ。
2007年5月30日
聴くことができないと思っていたのに
ちょっと前に「ジョアン・ジルベルトが愛したサンバ」というCDが発売された。
これは、ボサノヴァ先進国(?)日本編集版ならではというか、衝撃的なものであった。
ジョアン・ジルベルト信奉者にとっては、ボサノヴァ以前のジョアンの歌声にまず驚かされただろう。
そして、ジョアン・ジルベルトがカヴァーした数々の曲のオリジナルというか、貴重な音源の数々。
でも本当のことをいうと、聴かないほうがよかったんじゃないか、これって罪なCDなんじゃないか、とも思う。
ジョアン・ジルベルトが古いサンバの記憶を独自の手法で追求していることは、知られている。私たちのような「非ブラジル人」にとって、それは過去というより、けっこう未知のものであったりする。
もちろん、その一部は古い音源の再発によって知ることができたし、当時のサンバがもっていた雰囲気やサウンドをまったく知らない、というわけではい。しかし、故郷の拡声器のようなスピーカーから流れるラジオで若き日のジョアン・ジルベルト聴いたという古いサンバがどのようなものであったかを考えるのは、かなり想像力を刺激する作業だった。
こうしてあっけなく音源として差し出されてしまうと、これまで必死で探していた「聴くことのできないもの」の答えを見せられてしまったようで、少しつまらない。
いや、これは音源にがっかりした、という意味ではない。
むしろ逆で、実に素晴らしいものが多いのではあるが。
ジョアン・ジルベルトだって、必ずしも古いレコードを聴きながら、コピーしているわけではない。記憶のなかにある美しいものを実際に見たら、聴いたら、ちょっと違うと感じることは珍しくないだろう。
そんなわけで、これほど素晴らしいCDを聴いて、これほど悲しい気持ちになったのは、はじめての経験である。
2007年5月28日
2007年5月23日
裏ボッサ大会
先週、下谷のチェスさんにて「第一回裏ボッサ大会」が執り行われた。
参加者は私と「宇宙語ボッサの巨匠」ことRAMUCHI2000GTさん、その他数人。
本人たちの意気込みのわりには、慎ましい大会である。
しかし、このライブ、意外によかったんじゃないかと私は疑っている(?)。
RAMUCHI2000GTさんの男気溢れるボッサは、格好良くて、可笑しい。
裏の裏たる所以は、どうもポルトガル語がどーだとか、そんな細かいことではないようにも思えてきた。
一体それは何なのかと問われれば、一言でいうのは難しい。
一度大会を見にきてください。
参加者は私と「宇宙語ボッサの巨匠」ことRAMUCHI2000GTさん、その他数人。
本人たちの意気込みのわりには、慎ましい大会である。
しかし、このライブ、意外によかったんじゃないかと私は疑っている(?)。
RAMUCHI2000GTさんの男気溢れるボッサは、格好良くて、可笑しい。
裏の裏たる所以は、どうもポルトガル語がどーだとか、そんな細かいことではないようにも思えてきた。
一体それは何なのかと問われれば、一言でいうのは難しい。
一度大会を見にきてください。
2007年5月16日
歌詞はおまけ?
詩というものに少し興味をもちはじめた頃、欧米のポピュラー音楽をよく聴くようになった。
でも、この2つはちっとも結びつかなかった。
もちろん、好きな歌を歌ってみたいという欲求はあり、仕方なく英語の歌詞を覚えたりはした。
でも、正直いって歌詞の内容はどうでもよいと思っていた。
日本のポップスをあまり聴かなかったこともあるかもしれない。
歌はサウンドの一部で、なんとなく響きがよければ十分だと思っていたのだ。
面白いことに、日本のアーティストではほとんど例外的に聴いていた矢野顕子が、歌詞の内容は重要ではなく、音楽がよければいいと思っている、という趣旨の発言をしているのを読んだことがある。
そして、その後は考えを変えたのかというと、実はあまり変わっていない。
私は基本的に、歌詞はそれほど重要じゃないと思っている。
歌詞なんかに頼らず、音楽を音楽として存在させることのできるミュージシャンを尊敬する。
じゃあなぜ今みたいなこと(歌詞中心に見える活動)をやっているかといえば、端的にそれしかできないからだ。
もっとも、母語である日本語の歌詞を聴いた場合、それが音楽を邪魔することは多くある。
一体、何を馬鹿なこと言ってるんだ? と思ったり、
かっこつけてんな~、と思ったり、
どこかの企業の宣伝文句みたいだなあ、と思ったり、
むしろ「音楽を邪魔しない」と感じる歌詞のほうが少ないとすらいえるかもしれない。
そういうレベルでは、やっぱり矢野顕子の歌詞は結構好きだ。
でも、本当のことをいうと、こういう意識では、いい音楽はつくれても、
「いい歌」はできないんじゃないだろうか。
言葉と音楽がどうしても切り離せないところで生まれた歌。
なんとなくはじめてしまったこの「日本語化」という作業のなかで、
期せずして私はその領域に触れてしまい、少し戸惑っているところだ。
でも、この2つはちっとも結びつかなかった。
もちろん、好きな歌を歌ってみたいという欲求はあり、仕方なく英語の歌詞を覚えたりはした。
でも、正直いって歌詞の内容はどうでもよいと思っていた。
日本のポップスをあまり聴かなかったこともあるかもしれない。
歌はサウンドの一部で、なんとなく響きがよければ十分だと思っていたのだ。
面白いことに、日本のアーティストではほとんど例外的に聴いていた矢野顕子が、歌詞の内容は重要ではなく、音楽がよければいいと思っている、という趣旨の発言をしているのを読んだことがある。
そして、その後は考えを変えたのかというと、実はあまり変わっていない。
私は基本的に、歌詞はそれほど重要じゃないと思っている。
歌詞なんかに頼らず、音楽を音楽として存在させることのできるミュージシャンを尊敬する。
じゃあなぜ今みたいなこと(歌詞中心に見える活動)をやっているかといえば、端的にそれしかできないからだ。
もっとも、母語である日本語の歌詞を聴いた場合、それが音楽を邪魔することは多くある。
一体、何を馬鹿なこと言ってるんだ? と思ったり、
かっこつけてんな~、と思ったり、
どこかの企業の宣伝文句みたいだなあ、と思ったり、
むしろ「音楽を邪魔しない」と感じる歌詞のほうが少ないとすらいえるかもしれない。
そういうレベルでは、やっぱり矢野顕子の歌詞は結構好きだ。
でも、本当のことをいうと、こういう意識では、いい音楽はつくれても、
「いい歌」はできないんじゃないだろうか。
言葉と音楽がどうしても切り離せないところで生まれた歌。
なんとなくはじめてしまったこの「日本語化」という作業のなかで、
期せずして私はその領域に触れてしまい、少し戸惑っているところだ。
2007年5月8日
情けなさ
情けない歌詞が好き、などというと誤解されることがある。
いわゆる「暗い歌詞」が好きなのだろう、と勘違いされるのだ。
「情けなさ」というのは、一体どいういうものだろうか?
池内紀というドイツ文学者・作家がこんなことを言っていた。
「ギャンブルが好きな人は、負けた後のあの情けない感じが好きで、ついやっちゃうんだよね」
つまり、「情けない」というのは一種の反省であり、相対化である。
悲しみとか苦しみとか怒りとか、そういうネガティブな感情を、そのまま表現するのではない。
「情けなさ」にかぎらず、こうした相対化によってもたらされるのは、
やはりユーモアだろうと思う。
大笑いするようなギャグではなく、そこはかとなく可笑しい、ユーモア。
だから、「情けなさ」はネガティブをポジティブに変換する一種の通路なのだ。
小さいもの、弱いもの、ダメなもの、美しくないもの……。
そういったものをたとえば「可愛い」と表現することができる。
それによって人々は、一般にネガティブな要素もポジティブに変換しているわけだ。
私にとって、「情けなさ」は「可愛さ」と似ているかもしれない。
いわゆる「暗い歌詞」が好きなのだろう、と勘違いされるのだ。
「情けなさ」というのは、一体どいういうものだろうか?
池内紀というドイツ文学者・作家がこんなことを言っていた。
「ギャンブルが好きな人は、負けた後のあの情けない感じが好きで、ついやっちゃうんだよね」
つまり、「情けない」というのは一種の反省であり、相対化である。
悲しみとか苦しみとか怒りとか、そういうネガティブな感情を、そのまま表現するのではない。
「情けなさ」にかぎらず、こうした相対化によってもたらされるのは、
やはりユーモアだろうと思う。
大笑いするようなギャグではなく、そこはかとなく可笑しい、ユーモア。
だから、「情けなさ」はネガティブをポジティブに変換する一種の通路なのだ。
小さいもの、弱いもの、ダメなもの、美しくないもの……。
そういったものをたとえば「可愛い」と表現することができる。
それによって人々は、一般にネガティブな要素もポジティブに変換しているわけだ。
私にとって、「情けなさ」は「可愛さ」と似ているかもしれない。
2007年5月3日
2007年4月27日
ポエジーと情けなさ
私はわりと昔から文章を書くのが好きだったが、最初に詩を書いたのがいつかは覚えていない。
たぶん、ふつうに学校で先生に書かされたのだろう。
そして、恐らくものすごくつまらないものだったに違いないと思う。
というのは、当時の私はわりと「優等生」であり、先生が喜ぶようなツボを知っていたからだ。
ポジティブであり、子どもらしく(胡散臭い言葉だ)、素直であり(これも)、明るいもの。
実際に、先生はそういう詩ばかりを褒め称えた。
あるとき、私はそういうものが詩ではないことを突然感じた。
6年生のときだ。私はちょっとした反抗期を迎えていた。
クラスメイトが書いた詩を、先生が批評していた。
「悪い詩」としてやり玉に挙げられていたのが、サカちゃんの書いた詩だ。
彼は私と同じように、大変痩せている。
そして彼は自分の育てた植物が、なぜか自分に似てひ弱なことを、詩で指摘していた。
先生はたぶん、植物がひ弱なのは「似ているから」ではなく、単に世話の仕方が悪いのだと捉えているようだった(その通りである可能性は、高い)。
そのため、このやや無責任な感じのするサカちゃんの詩に怒りをぶつけていたのだった。
しかし、私には「自分の育てた植物が自分に似る」というこの不思議な現象のなかにこそ、詩があるのだと感じられた。
先生への反感もあって、私はそのような趣旨のことを発言した。
この詩が一番いい、自分はそういう詩を書いたことがない。
私にとって「ポエジー」の原点は、ここにある。
したがってそれは、どこかで「情けなさ」と結びついたものだ。
花といえばポジティブなものという、J-POPの歌詞は、だから全然ピンとこないのだ。
たぶん、ふつうに学校で先生に書かされたのだろう。
そして、恐らくものすごくつまらないものだったに違いないと思う。
というのは、当時の私はわりと「優等生」であり、先生が喜ぶようなツボを知っていたからだ。
ポジティブであり、子どもらしく(胡散臭い言葉だ)、素直であり(これも)、明るいもの。
実際に、先生はそういう詩ばかりを褒め称えた。
あるとき、私はそういうものが詩ではないことを突然感じた。
6年生のときだ。私はちょっとした反抗期を迎えていた。
クラスメイトが書いた詩を、先生が批評していた。
「悪い詩」としてやり玉に挙げられていたのが、サカちゃんの書いた詩だ。
彼は私と同じように、大変痩せている。
そして彼は自分の育てた植物が、なぜか自分に似てひ弱なことを、詩で指摘していた。
先生はたぶん、植物がひ弱なのは「似ているから」ではなく、単に世話の仕方が悪いのだと捉えているようだった(その通りである可能性は、高い)。
そのため、このやや無責任な感じのするサカちゃんの詩に怒りをぶつけていたのだった。
しかし、私には「自分の育てた植物が自分に似る」というこの不思議な現象のなかにこそ、詩があるのだと感じられた。
先生への反感もあって、私はそのような趣旨のことを発言した。
この詩が一番いい、自分はそういう詩を書いたことがない。
私にとって「ポエジー」の原点は、ここにある。
したがってそれは、どこかで「情けなさ」と結びついたものだ。
花といえばポジティブなものという、J-POPの歌詞は、だから全然ピンとこないのだ。
2007年4月25日
お土産
GWに益子の陶器市で演奏させてもらうので、そのときにもっていくお土産としてCD-Rを製作した。
本当はいくつか新しい録音も入れたかったのだが、どうもうまくできず、最近一年間にHPで公開した音源だけで構成することにした。
益子にはダウンロードできないからCDくれ、などという方もいるから、それなりに意味はあるのだ。
とはいえ、前に2回つくった歌詞カード付きのCD-Rとちがって、ジャケットもないいい加減なものである。
1. トロリーソング
2. ベサメ・ムーチョ
3. おうちにはかえらない
4. 蛙
5. あなたと私
6. 四葉
7. バナナの木
8. レオンジーニョ
9. Moon Is Mine
10. マシュケナダ
11. 三月の水(ライブ録音)
12. らくだ節
かなりいい加減に順番を決めたが、全体を通して聴くとけっこういい(自画自賛炸裂)。
興味のある人はしばらくライブの折などにもっていき配りますので、お声をおかけください。
本当はいくつか新しい録音も入れたかったのだが、どうもうまくできず、最近一年間にHPで公開した音源だけで構成することにした。
益子にはダウンロードできないからCDくれ、などという方もいるから、それなりに意味はあるのだ。
とはいえ、前に2回つくった歌詞カード付きのCD-Rとちがって、ジャケットもないいい加減なものである。
1. トロリーソング
2. ベサメ・ムーチョ
3. おうちにはかえらない
4. 蛙
5. あなたと私
6. 四葉
7. バナナの木
8. レオンジーニョ
9. Moon Is Mine
10. マシュケナダ
11. 三月の水(ライブ録音)
12. らくだ節
かなりいい加減に順番を決めたが、全体を通して聴くとけっこういい(自画自賛炸裂)。
興味のある人はしばらくライブの折などにもっていき配りますので、お声をおかけください。
2007年4月23日
悲しき裏ボッサ
さて、ここまで何やら長々と書いてきたのは、「裏ボッサ」とは何かを説明するためだった。
乱暴に要約すると、裏ボッサとは、ボサノヴァという伝統芸能のなかにある一種の異端である。
自分はあくまでもボサノヴァをやっていると主張しつつ、何やら怪しげな音楽を奏でる人々である。
などと書きながらも、すでに「裏ボッサ」というジャンルが成立するかどうかは、かなりどうでもよくなっている。
とりあえず、まずは人知れず活動している2人のミュージシャンを紹介したい。
私がこんなことを書き出したのも、最近この人たちの存在を知ったからだ。
まず、菩薩ノバ。
名前の通り、お坊さんである。怪しさではとにかく群を抜いている。
そして、たぶん実力も。
もうひとつ、4畳半BOSSA NOVA というサイトをやっているramuchi2000GTという人。
名前の意味は今のところ不明だ。
この方とは5月に一緒にライブをやらせていただくことになっている。
光栄というほかない。
僭越ながら、私のやっていることも加えさせていただくことにしよう。
3人の共通点は、 ポルトガル語というボサノヴァのたぶん最重要構成要素を無視しているところだ。
にもかかわらず、あくまでもボサノヴァであると言い張る。
たぶん、ポルトガル語でうまく歌えなかっただけなんじゃないかと思うが(少なくとも私はそうだ)、
その挫折をポジティブに(?)乗り越え、あるいは無視し、とにかくボサノヴァを続ける。
このほかにも、実は何人か「裏ボッサ」的な存在を確認しているが、とりあえず例としては十分だろう。
他に、ギターというやはり重要な構成要素を無視した人もいるかもしれない。
海外ではあるが、バンジョーでボッサという人もいる。
たぶん、他にもいろんな楽器が考えられるだろう。
ピアノなどではなく、ショボい楽器であればあるほど、裏感は強まる。
しかし、楽器の違いによって「裏ボッサ」と呼ぶのはどうも的を射た感じがしない。
そんなわけで(?)、「裏ボッサ」情報がありましたら、ぜひお知らせください。
乱暴に要約すると、裏ボッサとは、ボサノヴァという伝統芸能のなかにある一種の異端である。
自分はあくまでもボサノヴァをやっていると主張しつつ、何やら怪しげな音楽を奏でる人々である。
などと書きながらも、すでに「裏ボッサ」というジャンルが成立するかどうかは、かなりどうでもよくなっている。
とりあえず、まずは人知れず活動している2人のミュージシャンを紹介したい。
私がこんなことを書き出したのも、最近この人たちの存在を知ったからだ。
まず、菩薩ノバ。
名前の通り、お坊さんである。怪しさではとにかく群を抜いている。
そして、たぶん実力も。
もうひとつ、4畳半BOSSA NOVA というサイトをやっているramuchi2000GTという人。
名前の意味は今のところ不明だ。
この方とは5月に一緒にライブをやらせていただくことになっている。
光栄というほかない。
僭越ながら、私のやっていることも加えさせていただくことにしよう。
3人の共通点は、 ポルトガル語というボサノヴァのたぶん最重要構成要素を無視しているところだ。
にもかかわらず、あくまでもボサノヴァであると言い張る。
たぶん、ポルトガル語でうまく歌えなかっただけなんじゃないかと思うが(少なくとも私はそうだ)、
その挫折をポジティブに(?)乗り越え、あるいは無視し、とにかくボサノヴァを続ける。
このほかにも、実は何人か「裏ボッサ」的な存在を確認しているが、とりあえず例としては十分だろう。
他に、ギターというやはり重要な構成要素を無視した人もいるかもしれない。
海外ではあるが、バンジョーでボッサという人もいる。
たぶん、他にもいろんな楽器が考えられるだろう。
ピアノなどではなく、ショボい楽器であればあるほど、裏感は強まる。
しかし、楽器の違いによって「裏ボッサ」と呼ぶのはどうも的を射た感じがしない。
そんなわけで(?)、「裏ボッサ」情報がありましたら、ぜひお知らせください。
2007年4月18日
表ボッサ、裏ボッサ
古典芸能などというが、お前のやってることは、めちゃくちゃじゃないか。
そう言われれば、もっともである。
そもそも、私には「師匠」がいないし、ボサノヴァどころか、ギターも習ったことがないのだ。
おまけに、先駆者にはかなり失礼ともいえる改変を行っている。
しかし私が言いたいのは、もう少し基本的な「心構え」についてだ。
そのことを語る前に、前回触れた小野リサ以外にも、 日本にはたくさんのボサノヴァ弾き、ボサノヴァ歌いがいることは指摘すべきだろう。
しかし、彼女の他は、CDやライブだけで生活できる人はほとんどいないだろう。
彼らの多くは、弟子をとることで、生計を立てていると思われる。
こうして、お稽古ごとが大好きな人の多い日本の「ボサノヴァ道」は、どんどん古典芸能化しているわけだ。
もちろん、いわゆる古典芸能にくらべれば、縛りはゆるい。
師匠の教えだけを頑なに守っているような人は、決して多くないだろう。
それでも、舶来の音楽をいち早く修得し、それを多くの人々に教えた彼らの功績というか、影響は小さくないものと思われるのである。
ここで私は冗談まじりに、このお稽古的なボサノヴァの主流を「表ボッサ」と呼びたい。
基本的に表ボッサは多数派であり、保守的である。
一方、もう少し異端的な人々がいる。私はもちろん「裏ボッサ」である。
重要なのは、2つの違いよりも、むしろ共通点かもしれない。
それは「ボサノヴァ」という言葉に対するこだわりというか、未練というか、執着心だ。
たとえば、どれほどボサノヴァに影響を受けようとも、たとえばSaigenjiのような人は、それを乗り越えてしまっている。
それは、ブラジルでカエターノ・ヴェローゾをはじめ、先述のパウリーニョ・モスカなどなど、多くのミュージシャンがボサノヴァからの多大な影響を消化し、新しいジャンルへ進んでいったのと同じ。
私たちは面倒なので、この人たちのやってることを全部ひっくるめて「ポップス」と呼んだりする。
表ボッサと裏ボッサの共通点は、「ポップス」という茫漠たるジャンルに乗り込むことができず、消えてしまったボサノヴァにこだわり続けていることだろう。
こういう人々が大量にいる、というのが日本のボサノヴァ・シーンの不思議なところだ。
そう言われれば、もっともである。
そもそも、私には「師匠」がいないし、ボサノヴァどころか、ギターも習ったことがないのだ。
おまけに、先駆者にはかなり失礼ともいえる改変を行っている。
しかし私が言いたいのは、もう少し基本的な「心構え」についてだ。
そのことを語る前に、前回触れた小野リサ以外にも、 日本にはたくさんのボサノヴァ弾き、ボサノヴァ歌いがいることは指摘すべきだろう。
しかし、彼女の他は、CDやライブだけで生活できる人はほとんどいないだろう。
彼らの多くは、弟子をとることで、生計を立てていると思われる。
こうして、お稽古ごとが大好きな人の多い日本の「ボサノヴァ道」は、どんどん古典芸能化しているわけだ。
もちろん、いわゆる古典芸能にくらべれば、縛りはゆるい。
師匠の教えだけを頑なに守っているような人は、決して多くないだろう。
それでも、舶来の音楽をいち早く修得し、それを多くの人々に教えた彼らの功績というか、影響は小さくないものと思われるのである。
ここで私は冗談まじりに、このお稽古的なボサノヴァの主流を「表ボッサ」と呼びたい。
基本的に表ボッサは多数派であり、保守的である。
一方、もう少し異端的な人々がいる。私はもちろん「裏ボッサ」である。
重要なのは、2つの違いよりも、むしろ共通点かもしれない。
それは「ボサノヴァ」という言葉に対するこだわりというか、未練というか、執着心だ。
たとえば、どれほどボサノヴァに影響を受けようとも、たとえばSaigenjiのような人は、それを乗り越えてしまっている。
それは、ブラジルでカエターノ・ヴェローゾをはじめ、先述のパウリーニョ・モスカなどなど、多くのミュージシャンがボサノヴァからの多大な影響を消化し、新しいジャンルへ進んでいったのと同じ。
私たちは面倒なので、この人たちのやってることを全部ひっくるめて「ポップス」と呼んだりする。
表ボッサと裏ボッサの共通点は、「ポップス」という茫漠たるジャンルに乗り込むことができず、消えてしまったボサノヴァにこだわり続けていることだろう。
こういう人々が大量にいる、というのが日本のボサノヴァ・シーンの不思議なところだ。
2007年4月16日
古典芸能としてのボッサ
すでに多くの人がご存知のことと思うが、今のブラジルに、これがボサノヴァと呼べるようなものは、ほとんどない。
私がブラジルへ遊びにいった1999年頃はもちろんのこと、それより遙か昔にボサノヴァは終わってしまったといわれている。
だから、私も別にボサノヴァに期待してブラジルへ行ったわけではなかった。毎日ライブばかり見にいったが、それはサンバやMPB(ブラジルのポップス)、ショーロ、あるいはレゲエ、バイーアのアシェー、フォホーなどなど。さまざまな音楽がブラジルを彩っていて、飽きることはなかった。
Marcos Valleのライブにもいってみたが、たぶん彼もあれがボサノヴァだとは思ってないはずだ(フュージョンのような印象を受けた)。
なかでも私が一番ボッサを感じたのは、パウリーニョ・モスカの弾き語りだったろうか。もちろん、一般的にあれをボサノヴァと呼ぶのは間違いだろうけれども、彼のなかにボッサが消化されていることは確かだと思う。
ジャンル自体が消えてしまったとしても、さまざまな音楽のなかにボサノヴァは生きている。
というのが、私のごくいい加減なブラジルにおけるボサノヴァ状況の総括。
問題は、日本である。なぜか日本ではボサノヴァが活況を呈している。
しかもそれは、消えてしまったボサノヴァに限りなく近いスタイルで行われている。ボサノヴァが好きな人が多いとか、影響を受けたミュージシャンが多い、というレベルではない。
いってみれば、それは古典芸能として、生き続けようとしているのである。
小野リサという素晴らしいアーティストがいて、彼女は「日本ボッサ界の最高峰」に位置するだろう。というより、商業的な成功だけでなく、仕事のヴァラエティや量、そしてクオリティにおいても、ボサノヴァ・シンガーとして、たぶん世界一じゃないだろうか。
もっとも、ボサノヴァというジャンルが死んでしまった今、その意味は昔と違うのだけれども。古典芸能というのは、商業的に成功するようなものではない。
だから、小野リサはやや例外的である。クラシック・バレエや歌舞伎のスターみたいなものだろうか。
ついでにいえば、「ジョアン・ジルベルトが生きているじゃないか」などという話も、例外。
幸いにも「創始者」がまだ生きていて、おまけにものすごいクオリティの演奏活動を行っているわけだが、ここでの話にはあまり関係ない。
日本における古典芸能としてのボサノヴァ関係者は、ほぼ例外なくこの人物を尊敬し、下手をすると神と崇めるほどである。この辺がまた古典芸能ぽいところだ。
活気のある音楽ジャンルというのは、古いものを乗り越えるパワーのほうが、古いものへのリスペクトよりも目立つものだ。
だから私は、自分のやっていることも含め、これは一種の古典芸能だと思っているわけだ。
私がブラジルへ遊びにいった1999年頃はもちろんのこと、それより遙か昔にボサノヴァは終わってしまったといわれている。
だから、私も別にボサノヴァに期待してブラジルへ行ったわけではなかった。毎日ライブばかり見にいったが、それはサンバやMPB(ブラジルのポップス)、ショーロ、あるいはレゲエ、バイーアのアシェー、フォホーなどなど。さまざまな音楽がブラジルを彩っていて、飽きることはなかった。
Marcos Valleのライブにもいってみたが、たぶん彼もあれがボサノヴァだとは思ってないはずだ(フュージョンのような印象を受けた)。
なかでも私が一番ボッサを感じたのは、パウリーニョ・モスカの弾き語りだったろうか。もちろん、一般的にあれをボサノヴァと呼ぶのは間違いだろうけれども、彼のなかにボッサが消化されていることは確かだと思う。
ジャンル自体が消えてしまったとしても、さまざまな音楽のなかにボサノヴァは生きている。
というのが、私のごくいい加減なブラジルにおけるボサノヴァ状況の総括。
問題は、日本である。なぜか日本ではボサノヴァが活況を呈している。
しかもそれは、消えてしまったボサノヴァに限りなく近いスタイルで行われている。ボサノヴァが好きな人が多いとか、影響を受けたミュージシャンが多い、というレベルではない。
いってみれば、それは古典芸能として、生き続けようとしているのである。
小野リサという素晴らしいアーティストがいて、彼女は「日本ボッサ界の最高峰」に位置するだろう。というより、商業的な成功だけでなく、仕事のヴァラエティや量、そしてクオリティにおいても、ボサノヴァ・シンガーとして、たぶん世界一じゃないだろうか。
もっとも、ボサノヴァというジャンルが死んでしまった今、その意味は昔と違うのだけれども。古典芸能というのは、商業的に成功するようなものではない。
だから、小野リサはやや例外的である。クラシック・バレエや歌舞伎のスターみたいなものだろうか。
ついでにいえば、「ジョアン・ジルベルトが生きているじゃないか」などという話も、例外。
幸いにも「創始者」がまだ生きていて、おまけにものすごいクオリティの演奏活動を行っているわけだが、ここでの話にはあまり関係ない。
日本における古典芸能としてのボサノヴァ関係者は、ほぼ例外なくこの人物を尊敬し、下手をすると神と崇めるほどである。この辺がまた古典芸能ぽいところだ。
活気のある音楽ジャンルというのは、古いものを乗り越えるパワーのほうが、古いものへのリスペクトよりも目立つものだ。
だから私は、自分のやっていることも含め、これは一種の古典芸能だと思っているわけだ。
登録:
投稿 (Atom)